想田 どこで終わらせるのかというのは非常に重要です。最後のイメージを観客は家に持って帰るわけですからね。この映画は、もやもやするのが正解。もやもやさせたがってるんですよ、監督は。今、すっきりさわやかしていると、それは映画が失敗しているということでしょうね。

森 ラストシーンはとてもフィクショナルでもあります。寓話のような言い方もできると思うんですけど、現実を切り取って再構成するドキュメンタリーを撮られている想田さんからすると、こういったすっきりとした構図に刺激されたり良いなと想ったりはしますか?

想田 自作とは全然違うものとして見ているから、そういう風には思わないです。僕が劇映画を見るときは、なぜ監督はこういう人を登場させたんだろうとか、どうしてこういう構図にしたんだろうとか、作り手の視点では観ます。例えば、この映画で重要になってくるのが、孫の存在です。なぜ、独裁者一人で逃避行させるのではなく、孫を伴わさせたのか、理由があるはずなんですよ。それはなぜなのか、という発想で僕は観ますね。僕は、この孫は秀逸な物語の装置として機能しているなと思います。なぜかというと、もし独裁者が一人で逃避行していたら、あんなに独裁者の心の内側ってわからないですよ。会話がほとんどないというか、ずっと黙って逃げているだけになるわけだから。

森 ナレーションが入ったりね。(笑)

想田 非常にださいですよね、それ。(笑)だから、上手いなと思ったのは、孫と一緒に逃げさせることによって、孫が非常に素朴な疑問をぶつけるわけですよね。大人だったら聞かないような。だから、いろんな情報が開示されやすい。あとは、独裁者の心の内側っていうのがモロに出てくる、鎧を脱いだようなむき出しの心、柔らかい部分が出てくるんですよね。孫自身が、独裁者の柔らかい部分でもあるし、独裁者であろうと、孫とおじいちゃんじゃないですか。だから、彼の人間性というものが、どうしても出てくるようなセッティングになるんですよね。独裁者なんだけど、人間として描く、だからこそ我々は感情移入したりだとか、彼の目線になって疑似体験することができる。

森 冒頭の「電気を消せ、点けろ」というシーンも、孫を喜ばせているおじいちゃんの姿と言えますよね。あそこから始まるっているというのは、非常に計算された上手い出だしですよね。あのシーンだけでいろいろなことがわかっちゃう。

想田 あの短いシーンで独裁者がどんな政治家なのかがすぐに分かりますよね。監督は、非常にエコノミカルにいろいろなことを詰め込むのが得意な人だなと思いますよね。

森 ここまでマフマルバフ監督が、ある種変異な形で寓話スタイルをとったというのも、意図的な選択かなという気がしますね。

想田 架空の国にしたということが、僕は非常に秀逸な選択だったなと思いますね。『カンダハール』なんかを見ると、あれはアフガニスタンの話、あるいはタリバンの話という風に、我々は現実の世界状況と結びつけて見てしまうので、ある種ジャーナリズムな感じで見てしまうというか。実際のタリバンの支配地域と違うことがあれば、「あれは違うんだよ」というようなツッコミが入ったりだとか、フィクションなのにツッコミで議論がずれてしまうんですよね。だけど、これは架空の国にしている。どこで起きてもおかしくない話なんですよ。もちろん、彼の脳裏にはフセインや、あるいはリビアのカダフィなどが、確実にいると思うし、実際に現実のものを想起はさせるんだけども、もっと自由があるというか、好きなように独裁者を描けると思うし、現実と違うじゃないか、というツッコミも入らない。だから自由があるということと、我々観客の視点からすると、引き付けて見える。僕が感じたのは、まさに、独裁者になりたがっているような…。誰とは言いませんけども。(笑)そういう人たちの末路みたいなものを重ね合わせて見ちゃったりだとか、普遍性がでるというか。

森 もはや、ローカルな問題として閉じ込めてしまうような時代ではなくなったということで、言ってしまえば非常に確信的にテロリズムのような本質を捉えたということだと思いますね。
想田 現実がフィクションを凌駕しつつある。だけど今、現実にそういうことが起きつつあって、寓話とは言っていられない状況になってきてますよね。

森 寓話って現実に突き刺さるおとぎ話っていうような、風刺性ってあるものですからね。

想田 監督には先見性も感じますよね。これを撮った時には、今のようなことは起きていないわけですから。多分彼はアラブの春とか、ああいうものを念頭に置いて、民衆を描いたのだと思うんですけど、本質的な構造を捉えたがゆえに、別のところで起きている現象にも非常に重なってくる。ある意味プロフェットというか、預言者のようなものを感じて、背筋がぞっとしますよね。

森 実際『カンダハール』の時も、9.11を予言したと言われてますよね。あとすごいなと思うのは、彼自身が実際の独裁政権の犠牲者であるんですよね。それによって命が脅かされたとか、何度も暗殺されそうになっただとか。今はロンドンに亡命していて。普通、そんな身の上の人だったら、もっと独裁者をとっちめるような映画を撮りたくなるんじゃないかなと思ったりするんですけどね。実際監督の青年時代は、彼は暴力的なことによって革命は起こるんだという、政治少年だったわけですね。でも今は考え方が変わって、世界を文化で変えるんだという発想になって、映画を撮っているという流れがあるんですよね。そこは想田さんも近いところがあるのでは?

想田 そうですね、映画とか文化というのは、僕は栄養分だと思っているんですよ。直接的にはそんなに現実に左右しないのかもしれないけど、我々の精神を維持するというか、基本の部分を支えるもの、というのかな。土で言ったら栄養のある土からいい作物が育つわけじゃないですか。この土地が枯れてしまうと、いい作物というのは育たない。文化というのは恐らく、土の栄養素の部分。これがやせ細っていくと、ろくなことが起きないんですよね、だからいいものを育てようと思ったら、土の部分。マフマルバフ監督は活動家のようにも言われているけど、だけどこれを見るとやはり芸術家だな、と思いますね。