公開記念のトークイベントは「映画評論家2人が、見どころを徹底解説!」と題して、メディアでの映画解説でご活躍中の中井圭さん(映画解説者)と松崎健夫さん(映画評論家)をお迎えして、“映画ファンが『消えた声が、その名を呼ぶ』を見逃してはいけない理由”を語り合っていただいた。

★まずは映画の感想。
松崎:ファティ・アキン監督作はずっと観ているのですが、彼はトルコに出自のあるドイツ人で、そういったことをいつも描いていますが、今回はさらにワールドワイドになって、映画の広さがさらに広がった。肉親や恋人を求めて大陸を横断していくのは『母をたずねて三千里』や、日本だと南極まで歩いていく『復活の日』があります。こういった物語は波乱万丈になるのですが、この映画は背景も背景なので、波乱万丈にも程がある、という感じでしたね(笑)
中井:第一次世界大戦の頃にアルメニア人虐殺という事件が起きていたということは、意外と日本では知られていないと思います。ストーリーが美しいのはもちろん、こうやって映画をみて世界を知ることができるのがよいなと思いました。また、どういった視点で描くのかを興味深く観ました。アルメニア系カナダ人のアトム・エゴヤン監督も同じアルメニア人虐殺をテーマに『アララトの聖母』を描いていますが、これはアルメニア人の視点。ファティ・アキン監督はトルコ系ドイツ人ですよね、被害者加害者の視点ではなくどうこの題材を描くのかを面白く見ました。これは歴史をどう解釈するのかにも関わってくるなと思います。
松崎:この作品は、いろんな国の映画人の協力を得て作っていますよね。アトム・エゴヤンもその一人で、過去にこの題材を描いたことがある人などの協力も得て、それによって多角的な視点を取り込もうとしたのかもしれませんね。

★実は「西部劇」を意識!?“複雑な人間性、境界線の曖昧さ”が描かれている。
中井:アキン監督は、本作でアメリカの西部劇を意識したと語っているのですよね。
松崎:西部劇では、やっつけるべき敵がいる。でも、本作は明確な敵がいるようでいないのが特徴。誰かを救出するというのも西部劇に多いですが、本作では娘を探しにアメリカまで渡っている。そういったところに西部劇との関連が見えます。一方で、アメリカ映画のかつての西部劇は勧善懲悪で、ネイティブアメリカンという“敵”がいて、アメリカ人が勝つ。でも、60年代以降徐々に、そうじゃないんじゃないかとなってきて、イーストウッド監督『許されざる者』では白人同士の中にも敵が出てくる。ジーン・ハックマンが演じている保安官は、元をただせばイーストウッドが『ダーティハリー』で演じていた保安官のような役。悪そうな保安官だけれども、元々イーストウッドが演じていたのはこちらじゃないかと。そう考えると、映画の中での善悪はもっと曖昧になってきている。ファティ・アキン監督作の系譜の中で本作が重要だと思うのは、今までも民族同士のいさかいを描いてきて、いつもは何とか仲良くなれる糸口を見つけようとしているのが感じられていたのだけれど、今回『消えた声が、その名を呼ぶ』の主人公は、まだ恨みを残していたりして、完全な善人ではないところです。
中井:明確な境界線はなくて、加害者のトルコ側でもいいやつもいれば、アルメニア側に悪いやつもいる。国境を越えていく映画でもあるので、「境界線の曖昧さ」がある種この映画のテーマなのかなと思います。

★3部作最終章!ファティ・アキン監督がようやくたどりついた『消えた声が、その名を呼ぶ』
松崎:ファティ・アキン監督はかなり早い段階で三部作を作ると明言していました。『愛より強く』が<愛>、『そして私たちは愛に帰る』が<死>、今回の『消えた声が、その名を呼ぶ』が<悪>です。前者2作品が力作で少し疲れてしまったんですかね(笑)、間に『ソウル・キッチン』というコメディと、岩井俊二監督なども参加しているオムニバス映画『ニューヨーク、アイラブユー』の中の一話をスー・チー主演で撮っています。そしてようやく行きついた『消えた声が、その名を呼ぶ』は、今までの作品群とは違うものを作ろうと試みているように思います。<悪>がテーマの『消えた声が、その名を呼ぶ』は、主人公が完全なる善人でない。自分が娘を探しだすことが第一目的になっていて、旅の途中で会った人につめたくする場合もある。一方で、(敵側のトルコの)子どもに石を投げられないところなども描かれていたりして、人間には多様な心のうちがあるということが表現されている。今まで以上に世界を舞台にしているからこそ、多角的な人間性が描かれていると思います。
中井:「人間とは何をもって定義されるのだろうか?」を考えさせられました。属しているものなのか、善良さなのか。作品によってどちらに依存するかが違いますが、最近は血縁関係に頼らない家族の関係性を描く作品が多かったり、何をもって人の定義を決めていくのかが曖昧になっているように思います。この作品もそういった昨今の作品群に入ってくるものだと思います。
松崎:まさにそうで、それは国際映画祭でのトレンドにもなっています。究極にいきつくとこの作品のように「家族を求める」ということになるのだけれど、それをやると周りに対してどういう影響があるのか、それだけで果たしてよいのかということも、この作品は提示しているように思う。終り方は、見方によってはアメリカ映画に多い単純なハッピーエンドではない。それは、軋轢を乗り越えるためには自分の欲だけではだめなのではないかという監督の想いが込められているのではないかなと思いました。