高橋「部分を見るというのかな、観る側が部分に目が肥えている。だから表現はエスカレートしていかなくてはいけない、そいういう悪循環というものがあると思うよね。」

崔「多分空からメディアが山のように降ってきて、適宜選択していけばいいという時代だから、自分から積極的に、主体的に自分が嫌いなものも好きなものも、探求するということ、つまり好奇心が失われているように思う。だって映画なんて、好奇心と探求心の塊みたいなもんじゃん?どんな映画もそうだと思うんですけれど。そこが欠如するとやっぱり、全体が弱くなるということはあるんだろうけど、『赤い玉、』に関しては、とても直截的なタイトルも含めて、それに対する先駆的な抵抗を示しているというよりは、わりと優しく突き放すようなところがあって、そこが今日のテーマかな?男のエロティシズムというのがある意味、男としての勝手な妄想であるかもしれないけれども、同時にエクスタシーだよね。妄想とエクスタシーは明らかに違うわけで、そのエクスタシー、つまり肉体も導因した身体的な快楽っていうのは、人間の本能でしょ?というのは感じたのよ。」

奥田「昔我々が 快楽主義者という言葉に憧れたじゃないですか?僕は昔、「昭和快楽主義」っていう歌まで作っていたんですけれど(笑)、あまりそっちばっかり行くと演じる側ではいいんですけれど、個人生活と俳優という中でスキャンダルになるから、それは実践しちゃいけないんだけれど、(会場爆笑)だからとどまった今日この頃なんですがね」

崔「とどまってないよ。行ってほしいんですよ。和津さんには悪いけどね、娘も育ったんだし」

奥田「100人いると95人位が『昔の奥田のままいろ』っていうんですよ。あとの5人位がダメっていうのね。よくよく考えたら、(その5人というのは、)家族がダメって言ってるだけなんだなというのが『赤い玉、』を終わってよくよく考えたら判明した」

会場笑い

崔「俳優ってさ、ある種の虚業であるわけですよ。虚業で人々がある種の伝わる快楽、伝わる男のエロティシズム、女のエロティシズム。これ、自立したものじゃないから、一個の人間ですからね、彼とて。家族5人の反対は、僕も反対はしないけれど、残りの95人で、奥田にはぜひその突っ走ってと応援して欲しいよね」

奥田「だったら、責任を持って応援してほしいよね」

(会場爆笑)