奥田「映ったものが滑稽であるというのは、とても大正解です。僕は褒められたなと思って、うれしいんですが、人って時田もそうだと思うんだけど、鍵は幾つも持っていたものだから、どんどん恋愛というものの中にいて、気違いじみた恋愛を求めていくんだよね。美しいものかもしれないんだけど、そこを求めていくプロセスとして、少女というのがいる、と。まさに自分をどっかだめにするかもしれない境地になっていくというのは止められないというか。まさに時田の気持ちがすごいわかったんで、思うがままに見つめ、行動をカメラ前でしていました。」

崔「意外にこの律子っていう女子高生、今のJKということとはちょっと違う世界にいる女の子なんですけれども、京都のいい名家の娘さんということだけど、一方で赤裸々な、男で言うイタセクリタスみたいな、性産業で働く女子とは違うという感覚を持ったんだけど」

高橋「それは意図的です。」

崔「この子が見た目そのものがエロティックっていうよりも、俺は映画的変化を感じたのは、言葉なんだよ。台詞なんだな。肢体がすごいとか、脱ぎっぷりがすごいとかそういうところとは違うところにある仮託というか求めているものを感じたんだよ。
それは奥田の言うある種の少女論とは違うようなことを感じたんだけど。」

高橋「妄想だから、俺のね。『富士』を読む女子高生なんてまずいないじゃん?」

崔「俺はあれは禁じ手だと思ったよ!」

高橋「それ位、いそうにない」

崔「でも京都だといるかもしれないと思っちゃったもん。」

高橋「思ってくれると嬉しいけど。」

崔「新宿の紀伊国屋で、『富士』を手に取る制服の少女なんているのかよみたいな話なんだけど、でもある種共感を思ったというか、時田があそこで見初めるわけじゃないですか。だから、そういう意味ではさっき言ったように、肢体がすごいとかお尻がいいとかおっぱいがいいとか顔がいいということとは違うとこにあるんだなというのは非常に強くボンは表現しているのかなと思いつつ、同時に、生々しいね、不二子が。大場唯という、現実に高橋が大学で事務方の女性とできているか私は知りませんけれど(会場爆笑)、これが生々しいんだよ、これが!『時田先生、ホテルはいつものとこでよろしゅうございますか?』『うん、いいよ、いつものところで』って、『ホテルもクソもねえだろう、言っている事務員の家だろう!』って。なんか妙にリアリティーがあって、この不二子の三十路を過ぎた存在のエロというか、あれは結構、私はくすぐられました。とてもいいなぁと思ったし、ちょっと下世話のことを言うと、体のありようというか、性のありようというか、ものすごくわかりやすい、反面何を考えているのかよくわからない女なんだけど、時田/奥田瑛二に半分尽くして半分突き放しているような、独特の存在を示す女性が出てくるんですけれど、これが律子という少女とのある種の対比になってくるものですから、現実と妄想を行ったり来たりするわけですけれど。この不二子が演じている大場唯って女がまた賢い女なんだこれが。ちょっと潔すぎるんじゃないかと思う位賢すぎるんですが、これは実体験ですか?

高橋「・・・いや、違うよ」

(会場爆笑)

崔「多分2秒素があったぞ!」

高橋「うちの教員が今日来ているから、そんなことはないって証明してほしいんだよな」

崔「ここはあってもなくてもいいんです。あった方が絶対面白いんです。大学教員と職員との関係というそういうリアリズムじゃなくて、昔から知ってるボンのありようというか、僕の知る限りでは、女との別れ方は天下一品にうまい男でしたけれど、学びきれないでズルズルとやった私がいて、コイツ、変わってねえなっていう気がすごくした」

高橋「女から別れてくれるってことだよね」

崔「まったく、このご都合主義がよー。でもそうですね。物語の中なんですけれども、ああいう賢さというものがボンを見ているようで、なので奥田がだんだんボンになるんだけれど、奥田の方が品があるんで、その落差にちょっと戸惑いながら、個人的にはすごく楽しめた物語ではあったと思います。聞いていて台詞がきつい。学生たちも出てきます。『雨に唄えば』が出てきますよね?あそこがすごく不思議で、意外と長いじゃないですか。あの辺はどういうことなんですか?まだ観てない人にはちょっとヒントになると思うんで。」

高橋「まず学生に映画の在りようを示すという意識も強かったんで、これ、わけわからんかもしれないけれど、自由でいいんだというのと、単純に俺未だにあのシーン好きなんだよね」

崔「あれ惹かれるよね、妙に。ゼミ制作で、『雨に唄えば』をやるんです。この男女(学生映画の監督とヒロイン役)は男女で色々若い恋愛があって、当然男がどっかで苦い思いをしているんだけれど、同世代だと女がちょっとだけ進んでいるっていう感じがしたんだけれど。」

高橋「ちょっとじゃないね。相当進んでいる」

崔「おまけに、悔しいことに、小気味のよい料理屋がよう出てくるな。普段お前らはあんなところで食って呑んでるのか、ってイラっとしたけど」

高橋「まぁ、毎日のように行ってる店だね」

(会場爆笑)

崔「頭にくるなぁ。なんだけど、これがこれで、食い物とエロティシズムっていうのは絶対関わりあるんだよね。単純に酒飲んで姉ちゃん転がすっていう話じゃない。逆に男の面倒くさい根性だから絶対やめた方がいい。うまいものを食う、うまい酒を呑む。そこからくる微妙なところだよね。だから、時田/奥田瑛二への詰めた距離と離れる距離を持った唯の呑みっぷり、結構ボンの趣味なのかなって思いましたね。」

高橋「まあ俺の呑む酒しか出してないね」 

崔「もう、だんだん腹が立つ!なんだけど、そういう小気味よさが最近日本映画から少なくなっているとは感じている。」

奥田「小気味いいという反応は自分の中で理解はできないんだけど、これの大テーマが映画の中のエロスですからね。それをどうぶつけることが小気味いいだろう、と。そういう意味では、日本映画にエロスが足りない。昔あんなにどこに行ってもエロスがちゃんと日常の中に取り込まれていて、それがちゃんと監督が作家性を持って表現していたという劇映画がたくさんあった。
それが日本映画の魅力であったのに、それがここんとこ全くと言っていいほどない。ベッドに寝転がって顔を近づけて、キスもしないでデフェードアウトして、フェードインすると、次の日朝を迎えている、というようなシーンで押さえられている、というのは、じゃあ、日常を理解もしないで映画会社は作り、監督は撮っているのか、と思うと、なんか違うぞと。これじゃ、世界にどんどんどんどん置いていかれると、というのは二人の中で共通したんだ。じじいに差しかたった二人が、こちら(監督)は肉体をさらけ出さなくてもいいんだけれど、僕は全部伴明にこの肉体を預けたわけですよね。そこが小気味いいんだろうな。」

崔「俺はね、フェリーニじゃないんだけれど、呑むもの食うものというのが単純なコミュニケーションツールということだけじゃなくて、食い物飲み物と男の欲望とか願望のみじゃなくて、女の側の一つの表現として、呑み方とか食べ方というのはあるだろうと思うんだよね。多分二人は無意識にやっていて、いつもと同じような店で同じようなものを食べてるっていうのが、悪くないんですよ。多分、奥田が言った、『日本映画界からエロティシズムが消失している』というのはね、エロティシズムだけじゃないんだよ、喪失しているのは。
例えばバイオレンスもそうだろうし、虚構の上に虚構を重ねるような、屋上屋的な表現の仕方が傲慢なことになってきて、首は飛ぶは血が飛ぶはということになってきて、スプラッターまがいの、ジェットコースターアクションみたいなものが山のように出てきているけれど、別に痛くねえんだよな。そこはある種のエロというのかな、それも希薄になっているというのは名実ともにそうだと思うし、でもこの映画は単純に「ばかやろう」と言っている映画でもないのが、なかなか曲者の二人なんですよ。当然奥田は『俺は肉体晒した』って言っているわけ。俺も含め、じじいですよ、立派なもう。じじいそのものなんだけど、鼻のしわ一本が、俺はできればセクシーでいたいなと。映画の中の話で、俺の体の話じゃないからな。高橋がだいぶ腹が出てきたけど、そういう話じゃないよ!(笑)やっぱりそういうもんだと思うんだよね。そういう意味では不二子さんがやった唯なんていうのは、すごく感じちゃうわけですよ。

奥田「だから、さっきバイオレンスがあるとおっしゃったでしょ。それはどういうことかというと、今の映画を観ると、摩擦を感じない。どういうことかというと、男と女が殴り合う。これ、摩擦ですよね。殴り合う、摩擦ですよね。その摩擦感を感じないから、痛くないし、気持ちよくない。ちゃんと人と触れ合うのは全て摩擦。世の中の摂理は全部摩擦で成り立っているのに、それを無視し
て今があるから、これは、ダメだっていうことと僕は常日頃から思っているわけ。」

崔「物語が消失していると思うんだよ。極端に言えば、それこそギリシャ神話から掘り起こしてもいいんだけれど、人間、愛と憎しみじゃん。その中間が偉い複雑でさ。そこを避けてどうするんだよ、っていうのは、最近の日本映画を見て思うよね。そこは世界的な傾向かもしれないんだけど、なんかちょっといやらしいな、って。ここは表現者3人が並んでいるんですけれど、それは感じるよな?」