監督・高橋伴明(66)、主演・奥田瑛二(65)で、人生の半分を過ぎようとする男たちが探し続けている“不確かなもの、”人間が誰しも経験する“老い”が“性”にも追いつく時間を葛藤と焦燥感に苛まれ、それでも求め続けるしかない人生を描いた映画『赤い玉、』。第39回モントリオール世界映画祭に正式出品され、8月29日の上映に合わせ、伴明監督は現地入りした。

本作は、高橋伴明監督が、”日本映画初のヘアヌード”で話題となった『愛の新世界』(主演:鈴木砂羽)から20年ぶりのエロスに挑んだ作品。監督から、「日本映画には最近エロスが足りないからダメになっているのかもしれない。」と言われ、同感した奥田は、「エロスというものを俺たちの世代がもう一度復活させないと、これからの若い人たちはどうしようもないだろう」という想いもあって参加した意欲作。

9月12日(土)の公開に先駆け、9月7日(月)20:00〜21:00に新宿ゴールデン街劇場にて、50歳以上の男性限定で、主演・奥田瑛二 × 監督・高橋伴明 × スペシャルゲスト・崔洋一監督(66)という同学年の3人がお酒を呑みながら「オヤジたちのエロス」について語るトークイベント“赤い玉伝説って知ってるか?”を開催した。崔洋一監督は、81年の監督デビュー前に、”日本初のハードコア・ポルノ”としてセンセーショナルな風評を呼んだ大島渚監督の『愛のコリーダ』(76)でチーフ助監督も務めている。

9月7日(月)
登壇者:奥田瑛二 × 高橋伴明 × スペシャルゲスト・崔洋一
会場:新宿ゴールデン街劇場

崔「あれごとには必ずお前の顔があったと言われました。崔洋一です。当然ながら僕も(『赤い玉、』)観ています。(会場を見て)しかし、見事に男だなぁ、おい。そういう縛りで。今日は色んなラインを引かずに、色々話を聞いてみたいと思います。伴明は確か僕が19歳の時に会いまして、金がない私に、酒と、そしてのちに女を教えてくれたのが高橋伴明でございます。随分高橋には嵩っておりました。高橋の通称がボンなんですね。ですから、今日はボンと呼ばせて頂きたいと思います。
観て一番感銘を受けたのが、現実と虚構を行き交う自由さみたいなことで、僕としてはもっと品がなくやるのかなと思ったら、意外や意外で、さっき聞いてみたら、我々、同い年なんですね。昭和24年1949年生まれなんですね。
これはほぼ自主制作と言っていいのかな?」

高橋「基本自主制作です。自主制作に後から2社製作委員会風に参加してくれたということですね。」

崔「なんだか優等生ですよね〜。違うんですよ、実態は。一番感じたのは、この3人にとって共通していやなことは、『枯れたね』とか、『品がよくなったね』とか言われこと。だけどどっかで、かつて持った肉体とは違うわけで、(イベントのタイトルが)『オヤジとエロス』になってくるわけだけど、観てて一番感じたのは、あるエロスの切なさみたいなこと、妄想と現実を行き交うなんてことは若い頃からそうしてて、どちらかというと若い頃は妄想の方が勝っていて、現実が追い付かないわけだよね。オネエちゃんに関しては大体そういうもんなんですよ。だけどボンは違うんだよ。初めて出会った時、一番ボンに頭に来たのはね、合鍵が15〜16個ついているんだよ」

高橋「オーバー!8つだって!」

(会場爆笑)

崔「俺には15、16個に見えたの!さりげにそれをチャラチャラさせるいやらしいところがあるんだよ、こいつは。一応山手線の一周はできるとかなんとか言っちゃって。本当にいやなやつだったんですけれど。『赤い玉、』は要するに、終わりじゃないなということを感じたのよ。不二子がペロって舐めるじゃん、奥田の出たやつを。ちょっと薄めではあるかなと思ったんだけど。
最後じゃねえよなって。」

奥田「伴明は、僕の想像ですけど、時田というのは、そういう終末を迎えていくし、迎えたかなと思っているかもしれないけれど、『俺はそれをあからさまに見せたくない』と。(僕は)まだ、男であり続けたい、あり続けるし、そうだと思って演じるぞというのを内に秘めてずっと演じてて、どっかで僕の本質が出たのかもしれないけれど、まだまだ俺は男で、ブイブイいかせるぞ、という方がいい。『でもその予感(があり)、どこまであいつは生きて行くのだろう』『俺はどうなんだろう』と見た人は思うだろう。思わせるためには、僕の中では、ちょうどいいさじ加減だと確信をもって演じたわけですね。

崔「これまた品のいいこと言ってるんですよ。男のエロスというのは、若い頃はどうしても現実が追い付いてこないんだよ。見る女見る女全部開いていかなければ・・・」

高橋「ちょっと待って!俺は、妄想する必要なかったのよ!年取ってからだよ、妄想するようになったの」

崔「知ってますよ、そんなの。15個か8個かの違いはあるけれどさ。これはほとんど、形而上や観念のエロとはちょっと違う。
つまり、獣ですね。つまり、この世代で奥田はどちらかというと、新宿に足を踏み入れているかどうかきっと後からお話が出るかと思いますが、ボンはそういう意味ではモテました。もう一つ加えなくてはいけないのは、ちょっと観念が許される世代になっているんじゃないの、っていう。これは結構リアリティーがあるんだよね。もっと肉欲に素直に走っていいし、奥田の芝居もきわどいところを行ったりきたりしている。そこがちょっとね、この二人のサスペンスフルと言っていいと思います、この映画は。単純に老いた男のエロティシズムとはちょっと違うんだよね。それで思い出したのは、川端康成とかあの獣系、あとは谷崎純一郎のちょっと変態系。お二人とも見ごとなノーベル文学賞系の領域に入っていますよ。

高橋「そういう意味で言うと、川端康成の『湖』っていう小説があるんだけど、それはちょっとあります。」

崔「じゃあ俺の見方、間違っていなかったってことか。」

高橋「かもしれないね。女子高生の部分は、その『湖』から結構得ました。」

崔「演じてて、その辺はどうなんですか?」

奥田「ある記者に、『川端康成の世界だよね』って言ったんだよ。そうしたら、『え〜っ、伴明監督もそういう風におっしゃっていました』って言ってたから、『なんだ、そう思って俺も正解だったね』っていう風に思いましたね。」

崔「川端は僕にとって特別身近な作家ではなかった。読んでいて、例えば三島由紀夫のエロティシズムがあって、ほぼ純粋変態と観念上の世界で遊んでいる谷崎がいて、そういう意味で川端の変わりよう、ある種の妄想とか空想とか、これはその、アリだなっていうのはあったんだよね。そういうことを感じてて、ここひと月でこの奥田瑛二も出た『この国の空』も観たんだけど、エロティシズムの質が違うというか。あれは女側からの発情というか、エロティシズムなんだけど、今回の『赤い玉、』はね、ある意味では信じられないんだけど、この二人が全くナルシストになってるなという感じで、それがしゃれてるんだわ。そこがね、映画だよなと。映画のある種の空想というところにこの二人が行っちゃったというのは、私の嫉妬もあるんですよ!それは強く感じたね。特に、リアルな部分で言うと、時田は大学教授で、ボンの現実の中のほんの2-3%だと思って下さればいいんですけど、あのまま時田が京都の大学で今も教えている高橋伴明だと思ったら大きな間違いで、だけども、観たことのないリアリズムというのを非常に感じて。時田の、律子という女子高生が登場してからの変化っていうのはすごい激しいじゃん。実態はどうなんだね。」

高橋「想像の世界だよ!俺はね、悪いけど、女子高生とか全然興味ない。」

(会場爆笑)

崔「だそうですが、時田は興味があるというか、のめり込んでいくんだよね。」

奥田「まぁ、映画の中ではそうです。伴明がああいうことを言うと、俺が女子高生好きとは言えないじゃん。(会場爆笑)自分も映画で『少女』という映画を撮っている位ですから、それは当然興味はあるし、いわゆる女性に対する自分の青春を含めた経緯をいくと、普通の恋愛を望みながらも、どんどん年上から異形なものがあったりすると、少女という世代に必ずたどり着くというか、途中下車するんですよ。途中下車したものの、あこがれも実態も踏まえたうえで経験をしているとするならば、少女を通り過ぎると、何年か前からは、『それではないな。もっと実態を持った年齢の女性。それはいくつだ?』というのが、フィードバックとして少女という存在がありながらも、行ったり来たりする妄想の世界が生まれて、これが今現在の自分であるとするならば、とてもとても気持ちいい世界なんですね。これが。そこに今僕がいて、これから将来どこに行くのかと考えると、わくわくしちゃう。」

崔「ほぼ時田そのものでございます。呆れる位に、それでいて不思議なくらいな行動力。時にストーカーという言い方もあるんだけど、これは情熱の偏向、つまり偏愛、偏った愛の一つの形と捉えられるならば、言うところの、社会犯罪的なストーカーは皆丸じゃんみたいな、そういうエネルギーがあったよね、時田はね。あれは見て頂ければわかるんですけれど、ある男の滑稽さとですね、ちょっぴり寂しさもあって、好みだった。どう?」