映画『赤い玉、』奥田瑛二×高橋伴明監督×山田五郎が、「オスになれよ。摩擦を恐るな」と草食化している若者たちに喝!(3/3)
Q&Aコーナー
Q.1 「今の職業に就こうと思ったきっかけは?」
高橋「助監督として奴隷をやっていたからです。」
山田「まず助監督になろうとしたのは?」
奥田「助監督のバイトを辞めたがっていた先輩に無理やり連れていかれた。」
山田「別に映画監督になろうとは思っていなかったんですか?」
高橋「1ミリも思っていない。助監督になり、虐められたので、監督にならないと浮かばれないと。」
山田「奥田さんが俳優になられたのは?」
奥田「小学校5年生の時、東映の大友柳太郎の『丹下左膳』を見たときに衝撃を受けて、あの中(スクリーン)に行きたいと思ったのが小学5年生で、今に至ります。」
Q.2「仕事にやりがいを感じる時は?」
高橋「ちょっと恥ずかしいんですけれど、かみさんに褒められた時ですね。」
山田「高橋惠子さんに?やっぱり一番信用できる?」
高橋「一番影響のないポジションじゃないですか。そこでいいことを言われると、この仕事をやってよかったなと思います。」
山田「どういうところを褒められると嬉しいんですか?」
高橋「どこでもいいです。」
山田「奥田さんは?」
奥田「僕の場合、小学校5年生で俳優になろうと思って、それ以来今日まで他の職業についたことがないから、ずっとやりがいですよね。50で映画監督になったんですけれど、死ぬまでできるのが映画監督だというのと、総合芸術の中でもトップというのは映画監督だと思っていますから、死ぬまで映画監督ですけれど、それと、子供の時からの夢の連鎖で、志が無限大になっていく。そういう一つのイメージがやりがい。ひとつ言うと、学生諸君にぜひ申し上げたいのが、続けることが一番しんどいけれど、一番の成功への道。どういしたらいいかはどうでもいい。努力しかない。方法論は人それぞれ。学校で習ったことは一つも役にたたない。社会に出て何を目指すからだけだから、とにかく続ける。」
山田「続けている限り、負けはない訳ですからね。どうすれば成功できますかと聞かれますけれど、そこまでの方が意外に楽というのがありますか?そこから先続けていく方がはるかにしんどい。」
奥田「1回成功したからといって守りに入っていくと何も楽しくないですからね。先の先の景色も見えてきますから、死ぬまで楽しいでしょう。」
山田「やりがいのこと、僕もよく聞かれるんですよ。出版社の新卒の面接の際の質問で、『編集の仕事でやりがいって何ですか?』と聞かれるんだけれど。最初からやりがいを期待して仕事を探しても、やりがいなんて絶対得られないと思います。続けていくことでしか得られないと思います。」
Q.3 監督の仕事をしていて大変だなと思うことは何ですか?
高橋「いまどきは、内容のことよりも、数字のことを言われる。」
山田「客の入りだとか?」
高橋「そういうことです。昔はそういうのはプロデューサーの仕事だったんですが。」
Q.4 ベッドシーンを撮影する時、どんな気持ちで役を演じていますか?
奥田「例えば質問者のポンさんと僕がベッドシーンを演じるのなら、心底ポンさんに惚れていきますね。そうすると、自分のイメージが広がり、想いがポンさんに通じて、監督、カメラマンの中で二人が身を投じる。それがいかにナチュラルに映るか、監督も撮影監督も遠慮することなく、二人の心を写し取ることができるか。身も心も現場に投げ出すということですよね。それは女優さんと連動しなくてはいけないので、そういう意味では、女優さんを大切に思って撮影中は過ごしています。『嫌われたくない』とかそういうことは一切ない。ただ想いを相手役の人にぶつけに行く。ぶつけ方もストレートであったり、弱かったりするし、映画の中で恋人同士であるのなら、撮影現場ではそういう想いを持って臨みます。本気で好きにならないと、とても空気感が映らないと思います。だから、映画がクランクアップすると残酷ですよ!現実に戻らなくてはいけないし、家に帰れば、子供やかみさんがいるわけですし、夢の世界から現実社会に戻るわけですから、取り残されないように、残酷だけど、さっとそこから旅立つ、去る。取り残され、一人で立ちすくんで、『何で行っちゃうの?』となってしまうから。真実の恋愛でないと十分にわかっていても、自分の経験値として素晴らしい財産になるのは間違いないし。若いころから、どれだけラブシーンをやったかわからないけれど、いつもその残酷な気持ちと人を好きになるというのを繰り返ししてきました。当時から結婚はしていたんですけれど、もしも独身だったらどういう人生だったかと瞬間思うこともあるけれど、現実に結婚していたから歯止めがきいて、よかったのかな。独身だったら、破滅していて、今の自分はないと思う。好き勝手やって、ここまできているわけですから、枷が取れたら、はるか以前に消えていると思う。」
山田「相手を好きなる時、個人の奥田瑛二として好きになるのか、時田として女性を好きになるのか、どっちで好きになるんですか?」
高橋「時田が役で好きになっているとなる。芝居中はどれが自分なのかわからなくなっている。よく仕事が終わったら『俺は元に戻る』とか『私は元に戻る』と言っている俳優がいるけれど、そういうやつは大した役者じゃない。自分のガールフレンドや恋人には言わないんだろうけど、共演している時は絶対その人のことを嫌われながらやっている人もいるけれど、僕は半数以上の俳優さんや女優さんは、その時は恋をしていると思っている。いい俳優であればあるほどそういうところにはめ込んでいくんじゃないかな。」
山田「監督から見ていても、本気でできる人とそうでない役者さんと違う?」
高橋「それは伝わってきますよね。それは地からできている人と、そういう回路にスイッチを入れるテクニックがある人だと思う。」
山田「奥田さんの言葉で言うと身を投げ出せる人と、投げ出せない人がいるんですか?」
高橋「と思います。ただ、奥田は両方持っていますから。もし相手役に気持ちを寄せたとしたら、時田としても寄せているし、奥田としても寄せているような気がします。」
Q.5「エロスを超えた究極の愛は、真実の愛と異なりますか?」
山田「(質問者に)質問の意味がよくわからない。エロスを超えた究極の愛って何?」
奥田「究極の愛というのは結果論でしかないから、プロセスの中で究極を目指すなんていうのは違う世界ですよね。エロスというのは恋愛している本人同士はエロスなのか何なのか気にしないわけで、映画においてのエロスは肉体を含めて心を寄せあったりするので、それをいかに表現できるのか。その中には愛おしさもあれば、美しさもあるし、残酷性もあるし、人の奥底にあるということであって、“究極の愛”というのは人それぞれ性格が違うように、真実の愛を求めるというのもおかしいし、究極の愛もおかしい。10万人に1組しか生まれないというソウルメイトカップルというのがあるらしいんですけれど、それは真実の愛だと思うけれど、あとの9万9999人は真実の愛なのか何なのか、信頼して愛し合っているということだと思うんだけどね。」
高橋「質問者は、いきつくところはプラトニックラブなのではないかと考えているのではないかと思ってしまったんですけれど。」
山田「肉体的な愛と精神的な愛。」
奥田「いい若者がなんでプラトニックラブを求めるのか逆に知りたい。」
山田「精神的な愛も欲しいじゃないですか。」
高橋「身も心もという位だから、両方大事なんじゃない?」
山田「別々じゃないですよね、必ずしも。メイキングにもありましたが、体の摩擦を描かないから心の摩擦がスクリーンに定着しないとおっしゃっていましたね。」
奥田「生きるということは全て摩擦で成り立っていて、人と会って握手するのもハグするのも、バカ野郎と言ってパンチ食らうのもビンタ食らうのも摩擦だし、恋をして手を握るのも、摩擦。愛し合ってセックスするのも摩擦。全て摩擦で成り立っていて。生きているのも空気と肌の摩擦だし。いい摩擦と悪い摩擦があるから、悪い摩擦をたくさん持つとくだらないやつになると思うし、いい摩擦をたくさん持つと素敵な人になると思うと僕は思う。」
山田「今の若い人たちは摩擦が嫌いなんだと思いますけれど。精神的な摩擦も体の摩擦も避けているんだと思います。」
奥田「何が楽しくて生きているんだろう?摩擦のチャンスを自らが逃して生きている。酒に酔っぱらっていい気持ちになれば、喧嘩のチャンスもあるし、人と知り合うチャンスもたくさんあるし、スケベになるチャンスもいっぱいあったりして、それが果敢に大海に飛び込んでいくようなもんだから、そこを拒否すると、人生を生きていく中で、とても社会の風に対抗できない。」
山田「僕は草食系だけど、そこだけは賛成なんですよね。男女の関係に限らないんですけれど、摩擦があるから自分ができていく。若い段階だと、自分ってそんなにできていないと思うんですよ。自分がなんだかわからないし、自分が何をやりたいか、何ができるかがからない。自分探しというけれど、どこかになにかがぽんとあるわけではなく、これを見つけたら全部解決ということはない。摩擦を経ていく中で、擦れ合って擦れ合って自分の殻というものが固まってくるのではないかと思います。摩擦を恐れないで。」