監督・高橋伴明(66)、主演・奥田瑛二(65)で、人生の半分を過ぎようとする男たちが探し続けている“不確かなもの、”人間が誰しも経験する“老い”が“性”にも追いつく時間を葛藤と焦燥感に苛まれ、それでも求め続けるしかない人生を描いた映画『赤い玉、』。第39回モントリオール世界映画祭に正式出品されることが決定した本作には、同学年の伴明監督と奥田の、草食化してしまっている若者・映画業界に奮起を促したいという想いも込められている。

2012年から京都造形芸術大学の映画学科長として若者と密に触れ合っている高橋伴明監督は、「(ちょっと前の若者は)責任のある立場にならなければいけないというものがあったんだけれど、(現代の学生たちは、)そういう立場になりたがっていない。」と嘆く。また、奥田瑛二も、「(主人公の台詞)”オスになれよ”というのは僕もずっと言ってきたこと。”オス”が少なくなってきた。”男性”が多く、”男”は少し上。”オス”がいない。我々がオスなので、この若いやつらは、生涯俺たちが死ぬまで俺たちに勝てねぇなという風にずっと思っていた。」と言う。

そんな2人が、編集者・評論家の山田五郎氏をモデレーターに迎え、8月8日(土)17:00〜目白大学に集まった学生たちに、本作に込めた想いについて熱く語った。

●登壇コメント:
山田「高橋伴明監督は京都造形芸術大学で8年間程教えられてこられたんだけれども、映画『赤い玉、』では、監督自身がモデルと思われる、映画監督でありながら大学で教えている時田という男が主人公で、奥田瑛二さんが演じられている。赤い玉というのは、男は射精回数に限界があり、最後の射精の時に赤い玉が出て終わるという伝説があるんです。もうそろそろ赤い玉が出てしまうんではないだろうかという初老の映画監督・時田の焦り。また、映画監督としても作品をもう一度作れるんだろうかという焦り。男として、映画監督として終わってしまうんじゃないかという焦りを抱えながらも、愛人とダラダラ暮らしている男が、ある日謎の美少女に出会って翻弄され、一種のストーカーになっていく。その中で、もしかして最後の作品ができるかもしれないということで『赤い玉、』という脚本を書き始めるんですね。その映画を最後に撮りたい、という話。高橋監督の実人生に基づいたような、私小説的映画のような感じもしてしまう。撮影している場所も、京都造形芸術大学だからなんですけれど、監督自身がモデルなんですか?監督自身も事務の女の子とできていたりするんですか?」
高橋「それはないんですけれど、1/3位は自分の部分がありますね。あとは勝手に作った部分と、約半分は奥田そのものだと思ってやりました」
山田「奥田さんは演じていて、時田という役はそのものでした?」
奥田「そのものでした?って。ここにいる人は見ていないですけれど、見たらどんなおっさんだ、と思いますよ。僕の場合は、打ち合わせの段階で、監督の方から、『日本映画には最近エロスが足りないからダメになっているのかもしれない。』と言われ、僕も同感だったんで、エロスというものを俺たちの世代がもう一度復活させないと、これからの若い人たちはどうしようもないだろうなという想いもあって、伴明監督が脚本を書いてきたんですけれど、僕が読んだときは、『高橋伴明じゃん』と。高橋伴明を俺が演じるのか?と。でも高橋伴明を描いても、僕も映画監督やっているし、俳優でもあるんだけど、両方共わかるんだから、伴明監督の想いを胸にしまい込んで、奥田でやることでおもしろい相乗効果が生まれるんだろうなと思って演じましたけれど、意外と堪えますよね。映画がクランクアップして、しばらく自分の私生活で赤い玉をひきずっちゃって、迷路に迷い込んだ感覚になったんですよね。だから僕は、まだ赤いものが出ていないんで(笑)、赤い玉が出るって何なんだと引きずってしまって。結局トンネルから抜け出しましたけど、それ位同化して全てさらけ出して撮っていたんで、それの影響かなと思いながら、私はなんだ、少しは変わっているんだろうかって。公開が始まらないと、本当の答えは見えないなというのが今の僕の実感です。」
山田「高橋伴明監督の話なんじゃないの?というのもあるし、演じられている奥田さんご自身も監督と同世代で、ご自身も映画を撮っていらっしゃる。しかも舞台が伴明監督が教えられている京都造形芸術大学で、京都造形芸術大学の学生さんが役者さん。そういうことで、どこまでがリアルで、どこからがフィクションかわからなくなるのがこの映画の面白いところだと思う。時田は女子高生に魅せられてストーカーになるわけですけれど、そのきっかけになったのが、書店で女子高生が武田泰淳の『富士』という小説を買うんですね。それは戦争の終わり位に富士山麓にあった架空の精神病院を舞台にした話なんですよ。心を病んだ人たちが入っていたわけだから、何が正気で何が狂気かわからない、何が現実で何が嘘なのかわからないという世界を描いた小説なんですね。女の子がそれを取るのを見て魅せられたという象徴的なシーンがある。映画の中でも真実のような夢、嘘のような現実というのが出てきます。映画自体どこまでが真実、どこまでが夢かわからない。監督、そこが狙いだったんですか?」
高橋「ストーリー上も、実際の学校を使っていることも含めて、観ている人が混乱してほしいというのは思っていました。」
山田「奥田さんとしては、演じられて迷路に迷い込んだというのは、そういう部分も関係したんですか?」
奥田「そういう現場だったというのも大きいです。映画の中で撮影シーンがあるわけでしょ?自分で時田という監督をやりながらも、『あれ?こいつは映画に出てくるスタッフなのか、そうじゃないのか』というのがわからなくなるんですよね。わからないままずっと時田という役を演じればいいという気持ちでいたんですけれど、そういう幻、仮想現実が自分の中にストーリーを飲み込んでいますから、終わったときに、俺ってどこにいたんだろう?どんな迷路に迷い込んだんだろう?少女に対する妄想も、現実なのか、非現実なのかわからないというのが、あまりにも自分の現実の職業とキャラクターの職業が同化しすぎちゃってて、多分映画にとってはいいことなんじゃないかと思うと、じわじわとボディブロウが効いてきて、それは初めての経験だったから、足掻いて元に戻ろうということをせず、自然と時が経ったらどうなるんだろうというような意識があるから、公開するときはどうなるかなと思っている。エロスにしてもそうですし、その辺が自分の中で、どこまでが許されて、どこまでが許されないのだろうという、こんないい歳こいて、今それが課題になっている。