綾野剛主演作である『そこのみにて光輝く』が、モントリオール世界映画祭のワールド・コンペティション部門へ出品し、現地で記者会見が行われました。

<記者会見レポート>

Q1.今朝映画を拝見しましたが、今回のコンペ作品に出品されているすべての中で、最も洗練された作品だと思いました。そしてワイドスクリーンの中で、この作品は様々なテーマを扱っている訳ですが、私は1960年代、1970年代の作品を思い出しました。 例えば、今村昌平作品などを思い出しました。この作品では「性」というものを扱っている訳ですが、大人から見た「性」というものは、どちらかと言うと「汚いもの」という見方もありますが、若い方から見ると「性」というものは「美しい」ものだと言う見方もあると思います。そこで、監督の「性」に対する考え方ないし扱い方についてご意見を伺えればと思います。

監督:「性」と言うのは日本語で、「せい」という発音をすると、今回テーマにした男と女のセクシャルな意味があるんですが、もう一つ「生」という意味での「せい」がありまして、そのどちらも描きたいと思いました。そして今回は、原作が男と女の、ものすごく深い部分まで描いている小説だと思いました。ただ、原作が25年前の作品なので、それを現代に置き換えると、どのような男と女の性を描けばよいのかと考えました。先程60年代、70年代の話が出ましたが、今回はアメリカンニューシネマや日活ロマンポルノなどの、そのあたりの時代の、まさに「性」、男と女を描いていたり、そしてそこにストーリーをきちっと描いたり、あとはアメリカンニューシネマでいう男同士のバディものなども参考にさせて頂きました。昔に書かれているだけあって、人の熱量がものすごくあって、今の時代は日本も世界もクールになっている中で、どこまで熱く人を描けるか、男と女を描けるか、をすごく考えながら撮らせて貰いました。そういう意味では、シネマスコープというサイズだったり、そこにはみ出るぐらいの顔のクローズアップだったり、そういうものは私の中でこだわって撮りました。

Q2.最初にこの作品を通じて言おうと思っていた内容が、撮影に至る際にはなにか変わりましたか

監督:撮りながら変わったということはないのですが、脚本の段階で、ラストシーン、つまり終わり方をどうするかというのをすごく考えて脚本家と話し合いをしました。「救い」が欲しいと思いました。
このタイトルで、「そこ」は「Only There」となっていますが、もう一つの意味としては「底辺」という意味でもあるのだなと、途中で気づきました。そういうことを意識しながらも、彼らがラストシーンであそこまで最後に行き着いた、もしかして底辺かもしれないけど、その状況の中で朝がきた、ひとつの「きざし」みたいなものを、段々と自覚しながら描きました。

綾野剛:台本を読んでクランクインするまでに決定的に変わったのは、ともに呼吸するということ、ともに太陽を感じるということ、ともに歩んでいくということ。そして役を生きるということ、それが大きく変わりました。

池脇千鶴:脚本自体が生きていて素晴らしいと思いました。同時に役に対して沢山のイメージが浮かんできたので、そのままをぶつけたという感じです。迷ったところは監督が導いてくれました。自分で千夏がこうなんだろうなと思ってぶつけたことに変わりはありませんでした。