2005年にタリウムによる母親毒殺未遂事件を起こして世間を騒がせた「タリウム少女」をモチーフとした映画『タリウム少女の毒殺日記』が、7月6日ついに公開いたします!!

本日6月16日、本作の公開を前に16th metaPhorest Seminar 『タリウム少女の毒殺日記』上映会+公開対談 を開催致しました。
本作監督の土屋豊氏との対談を行ったのは、科学論・生命論が専門家の工学院大学教授である林真理氏(はやし まこと)です。このテーマに興味のある訳100名のお客様が詰めかけ、上映後トークショーでは、本作をバイオメディア・アートの観点から紐解き、メディアリテラシーから生命倫理にまで触れる、濃い内容の対談となりました。お客様からも質問や、否定的意見も飛び交い、アツいひと時となりました。

【metaPhorest Seminarとは?】
生命や生命科学の文化的・歴史的な側面に関する研究者やアーティストを招き、「アートにおける生命表現」や「生命科学の文学史」などに関する、第一線の研究や取り組みを紹介しています。

日時:6/16(日)
場所:早稲田大学 先端生命医科学センター(TWIns)

林:もともとこの時代で科学的な概念が変わっていくのに興味があったので、Ips細胞や遺伝子組み換えが対象として取り上げられている本作に興味があった。
  本作で少女は人間と動物を同じモノと見ているが、人間と動物は違い、人間にはダメで動物にはOK*というのはおかしい。人間は特別に自由、人権をもっているからというのは、私たちが作り上げた環境。
  生物と人間の境界線を示されたから、自分の意志でコントロールする。

土屋:タリウム少女は、その(生物と人間の)境界線を提示している。
林:そうやって提示するのであれば、彼女自身が自分をコントロールするのは矛盾するのでは?
土屋:少女自身も、自分で自分をコントロールすることの、そのもの自体のあやふやさはある。だがあやふやでは終わりたくなかった、やりきろうという覚悟があった。

林:プログラムの対義語は、途中で物語から神様に変わる。日本でいう日常用語的な神様という
意味で使われているからしっくりくるが、これが海外だったら大変かなと。
非常に日本的な、子供になにか説明するときのような意味合いで使っていたのが印象的。

土屋:ロッテルダム映画祭の観客から、「(自国では)身体改造やDNAを変える事という考え方が認知されていない。日本では認知されているんですね。」と言われた。また、宗教的な観点からの生理的な違和感や、ちゃんと考えた上での観念的な違和感はあったと思う。そんな抵抗は感じた。

林:身体改造アーティストの方は与えられた身体のプログラムを改変していこうという主体的な自己として捉えられた。 でも体って自分の思った通りにはならないと思う。思った通りにならないから、面白い。

土屋:違う意味にデザインするために、試行錯誤を繰り返す。そしていろんな難易度を超えていく。簡単にいかないところが挑戦なのかなと。
林:つまりそこには制御したい欲望があるのでしょうか。でも生命は制御してしまうと生命じゃない対象になってしまう。それができないところに生命としての意味や重要さがあると見なせると思う。
土屋:タリウム少女はモノとしてみたくてしょうがない。人間たちはそう見られているじゃないかと思っているし、彼女自身、人間はモノだと思っている。科学的なところでもそうだが、高度の資本主義社会の中で、ひとつのデータ、消費者としての正しい行動を求められ、コントロールされているプログラムとしての私、モノとしての私を自分でとらえ返している。そこには私はそのモノを自分でコントロールするよ、自分の意志で使っていくよという、モノとしての応酬がある。

【観客より質問】本作では、神様とプログラムを対照的な存在として表していますがその理由は?
土屋:プログラムは、改変できるもの、コントロールできるもの。
    神様は、改変やコントロールが不可の得体の知れないもの。
    自分で手にして、改造することができないものを信じる事が出来ない少女にとって、数字で表せるものこそ真実。