東京国際映画祭のメイン会場である港区で、本映画祭が開催されることを機にスタートした港区・東京国際映画祭共催企画「東京国際映画祭プレイベント上映会」も、今年で9年目を迎えます。
9年目の今年は、5月に他界された新藤兼人監督の追悼上映イベントを開催し、第23回東京国際映画祭コンペティション部門 審査員特別賞受賞作品『一枚のハガキ』の上映と新藤次郎プロデューサーによるトークショーを行いました。

■日時:9月29日(土) 

■場所:赤坂区民センター区民ホール
港区赤坂4-18-13 赤坂コミュニティープラザ3F(青山一丁目駅より徒歩10分、赤坂見附駅より徒歩10分) 
■トークショー(上映後): 17:56〜18:30(予定) トークショー (約35分間)

■ゲスト(予定):新藤次郎 プロデューサー (近代映画協会社長兼プロデューサー)
  矢田部吉彦(東京国際映画祭プログラミング・ディレクター)

矢田部PD(以降、矢田部)
「新藤兼人監督がなくなられて4ヶ月経ちましたが、今の心境はいかがですか。」
新藤次郎P(以降、新藤)
「監督は5月29日に亡くなったので、今日は月命日なんです。墓参りに行ってきました。もう4ヶ月なのか
まだなのかよくわかりません。」
矢田部
「『一枚のハガキ』撮影のエピソードを」
新藤
「撮影時、監督は車いすで目もあまり見えず、もしかしたら未完に終わるかもしれないと思っていました。
とにかく完成させたい。そのためにあらゆる手段を講じて撮りました。予算に余裕がなかったので、本来なら60日かかる撮影を45日で撮りました。監督は、“次郎に45日で撮らされた”と恨み節を言っていました(笑) 大竹しのぶさんについては我々は“化けもの”と呼んでいたのですが、大竹しのぶさんの集中力はすごかったです。即座に演技に反映できる素晴らしい女優です。ラストカットは沼津で撮影したんです。いつもは娘と一緒に昼食をとるのですが、そのときはひとり昼弁を食べて遠くを見つめている感じでした。この作品を東京国際映画祭にお誘いいただいて光栄でした。海外へはもう行けないと思っていたので、国内の映画祭がベストだと思い、出品させていただきました。監督も同じ考えでした」
矢田部「父親としての新藤兼人監督はどんな人でしたか?」
新藤
「子供のころは父親としての意識はありませんでした。大学時代まで家にはほとんど不在で、一年を通算しても一か月間いるかいないかでした。父親が家に帰ってくると、母はいつも作らないご馳走を用意して家はお祭り状態だったほどで、普段の父親と息子の交流というものはありませんでした。おこずかいも一度しかもらったことがありませんでした。お正月にお年玉代わりに本を買ってもらえるのですが、その帰り道に500円をもらって、とってもびっくりしたことを覚えています。
大学在学中に、新藤組の末端として仕事をはじめ、それから父親との会話が始まり、それまでは父親と会話はありませんでした。
矢田部P「では、プロデューサーとして、監督との関係は?」
新藤
「プロデューサーとしては、監督と対決相手でもありましたが、私はプロデューサーであり、血のつながった身内である、だから最後にはそちらの側に立つという宣言をしたら、それからうまくいくようになりました。」
「100歳の誕生日会を開き200名以上の人が集まってくださいました。監督は『これで最後です。みなさんさようなら。』
と言っていました。いつも映画の事を考えている人で、本当に映画が好きだったんだと思います。」