終戦記念日である8月15日(月)、映画のご当地であるワーナー・マイカル・シネマズ 新百合ヶ丘で舞台挨拶付ジャパンプレミアを行いました。本作はベストセラー作家・浅田次郎の原点とされる小説の映画化です。作品中に登場する“武蔵小玉市”は、東京・稲城市がモデルとなっており、実際に小説が書かれた土地です。また、工場のモデルとなった旧日本軍多摩火薬製造所などが近くにあり、映画にゆかりの深い場所でもあります。浅田さんは、自分の幸福は何によってもたらされたのか、それは戦争を経験した両親が生きてきた最も大変な時代があったからこそだと思い、その思いを伝えたいと考え、「日輪の遺産」を書きあげられたそうです。

■場所: ワーナー・マイカル・シネマズ 新百合ヶ丘(川崎市麻生区上麻生1−19−1)
■日程: 8月15日(月)  17:45〜
■登壇者:堺雅人/ 森迫永依/ 佐々部清(監督)/浅田次郎(作家)

映画の上映に先駆けて、映画館ロビーにレッドカーペットが引かれ、その両側に詰めかけた観客のあふれんばかりの歓声に包まれながら登壇者が登場。平和の象徴であり、「日輪」=太陽の花であるひまわりを持った観客と、登壇者とで一緒にフォトセッションが行われました。堺雅人さんは、「8月15日という特別な日に、この映画にとって故郷と言えるような新百合ヶ丘で、こうしてご挨拶できることをスタッフ・キャストを代表して心から映画の神様に感謝したいと思っています」と挨拶。

続いて、場所を映画館内に移し、映画上映前に舞台挨拶を行いました。

堺雅人「 (今回の役作りについて) あまり役作りといえるようなものはしていません。誰かの演じた軍人を形だけ真似るような作業はしない方が楽しいのではないかと思い、その時その時で、周りの方々の演技を受けながら、軍人だからこうしようというのではなく、今回のこの役だからこういうような動きなんじゃないだろうか、ということを考えながら演じました」

森迫永依さんは、女学生役の皆で、役柄について “ここはこういう気持ちだったんじゃないか”などと相談しながら仲よく撮影に臨んでいたことを振り返りつつ、撮影の合間、「“男性陣の中だったら誰が一番好み?”みたいなことを話していました(笑) 一番人気だったのは中村獅童さん」という等身大の女子トークを繰り広げていたことを告白。これには堺さんも思わず「現場の雰囲気から薄々気づいていましたが・・・」と苦笑い。森迫さんからの知られざるエピソード披露で、場を和ませました。

佐々部清監督は今回の『日輪の遺産』が監督第10作目。その節目となる作品で、長年ファンだったという浅田次郎作品を選びました。
佐々部「助監督の時からずっとファンで、『地下鉄に乗って』を読んだ時に、なんとかこの原作権を取って監督したいな、と思っていました。浅田先生の『鉄道員』のチーフ助監督をやらせていただいて、現場にお見えになった時、僕がコーヒーを持っていたんです。『日輪の遺産』の撮影現場に来られてそのことを話したら、全く覚えてもらっていませんでした・・・(笑) ちょっと淋しい思いをしながら、いつか浅田文学の監督をやる時が来るという夢みたいなことが起きないかと思ったら、10本目にひとつまた夢が叶って、プレッシャーというよりも、本当に幸せで・・・」 と、純然なるファンとしての願いが叶った喜びを改めてかみしめていました。

原作は、浅田次郎さんが稲城市に住んでいた時に記されました。
浅田「私はしばらく稲城に住んでおりまして、何かの拍子に市内にある旧陸軍の弾薬を作っていた工場の跡を通りかかったんです。そこは今でも米軍の施設になっていますが、“なんでこんな場所が米軍の保有施設になってるんだろう”と思いました。当時はまだ山の中に洞窟があって煙突がいっぱい立っていて、工場に弾薬を保管したりしていました。それを柵越しに眺めた時に、“こういう作品、ありじゃないか”と思い立った訳です」 と、実際に目にした風景が作品のアイデアとなったことを明かしました。

イベントが行われたのは66回目の終戦記念日。浅田さんも佐々部監督も戦後生まれにも関わらず、戦争を題材にした作品が多いことについて、
浅田「昭和20年に第二次世界大戦が終わった時、日露戦争から40年しか経っていないんです。そう考えると、今日までの66年というのはすでに長い歴史だということが分かります。昭和26年(1951年)で生まれの僕が物心がついた昭和30年代には、もう戦争の面影も焼け跡も何もなく、今とあまり変わらない文化生活を送っていたような気がします。その間わずかの間に焼け野原から復興したこの日本人の底力というのは一体どんなものだろう、という風に考えました。戦争を知らない人間が戦争のことを描くことは大変僭越な話ではありますが、そういう時代に生まれ合わせた私が、戦争を描いて次の世代に小説という形で送り届けていくというのは、必要な仕事だと思っています」
同じく戦後・昭和33年生まれの佐々部監督は、助監督としての最後の作品『ホタル』で、戦争を体験した降旗康男監督・高倉健(主演)のふたりの戦争を伝えるために作るという想いに触れ、そこに参加したことを誇りに感じたと振り返りました。その上で、「8月13日に、実はこの『日輪の遺産』を持って石巻の被災地に行きました。観客はたった50人位でしたが、ボランティアで無料上映を行い、被災地の色んなところを歩いてきました。もちろん戦争のこともありますが、今はこの被災地を僕たちはきちんと応援して、頑張らないといけないのかな、と強く感じました。この映画に最初に着手して公開まで5年かかりましたが、今この映画を皆さんに送り届けられることはとても意義があることで、それは喜びにもなっています」 と、映画プロモーションではなく、一個人としてプライベートでこの映画を被災地の方に届けてきていたことを明かしました。

最後に、堺さんの挨拶で締めくくられました。
堺「8月15日というのは我々日本人にとっては忘れることのできない大切な記念日で、8月6日、8月9日など色んな記念日が日本にありますが、3月11日もおそらくそうなると思います。決して人ごとではない自分と地続きのものとして歴史を捉えなければならないという浅田先生が以前おっしゃっていた言葉が僕の中で強く引っかかっています。俳優とは、人様の書いた脚本を自分の言葉のようにしゃべる職業ですが、誰かひとりの人生に想いを馳せるその作業自体が、戦争からとても遠いところにあるのではないかと思っています。今回の震災で亡くなられた方ひとりひとりに、ひとりひとりのストーリーがあって、そのひとりひとりに想いを馳せることが一番いいことなのではないか思っています」