6月4日(土)、なかのZERO小ホールにて、「ムーランルージュの青春」完成披露記者会見が行われた。新宿駅東口にかつてあったムーランルージュ新宿座とは、佐々木千里が昭和6年に開館した芝居とレビューを中心に提供する劇場で、風刺劇や抒情劇で学生・インテリ層に人気を集め、歌ありコントありトークありのバラエティという言葉を生みだした。この劇場から有島一郎、望月優子、明日待子、森繁久弥、三島千恵子、由利徹などの名優を輩出した。その中でも、明日待子さんは1933年から47年まで同劇場に所属し、35年にはカルピスの初代CMガールに抜てきされるなど、“元祖アイドル”として活躍した。

本作は、生誕80周年を記念した記録映画で、劇場が閉館してから60年が経ち、数少ないムーランの出身者に取材をし、隠れていた貴重な資料や新証言と共につくりあげた作品で、ムーランを支えた人々、そしてそこに集った人たちの青春の記録でもある。

今回の記者会見には、当時のトップスター明日待子さん、野末陳平さん、田中重幸監督が登壇した。コメントは下記の通り。

明日待子:ムーランに入って女優という職業を選んだのは、親孝行をしたかったのが一番にあり、踊りや舞台、舞踊が好きだったから。できた当時は客足が少なかったが、ムーランの舞台は品格があり、プライドがある人たちの中で家族のような暖かい場所でした。そこで、私はムーランの娘として、一生懸命に今日死んでもいいという気持ちでやっていました。また、戦時下でファンが「一緒に死んでくれ」と刃物を突き付けてきたこともありました。そういう切羽詰まった時代の中でやってきた青春の場所でした。この度は、記録として劇場が残ることを嬉しく思います。

野末陳平(ムーラン研究家):ムーランとは言いたいことをいろいろ言ってくれる時代の代弁者であり、唯一の娯楽として学生や若いサラリーマンに人気でした。TVの無かった時代に癒しを与えてくれる民放の役割を果たしていました。明日待子さんを始め、森繁久弥さんなどの有名俳優を生み出したのは、風刺のきいた軽演劇や文芸部で、作家や俳優、歌手の下地となることをしていたから。これが今日の娯楽に繋がっています。ムーランについての資料を集め続けてきて、発表する機会ができて嬉しく思います。

田中重幸(監督):ムーランの舞台は全部オリジナルなんです。今の映画やテレビのお笑いもそうですが、何万部か売れた原作に、何かにでている役者を抱き合わせ。ムーランルージュでは10日変わりで月に3本の劇を公演していた。そこに本物のエンターテインメントがあり、観客の反応が直に伝わり、作品が作られる。そういうオリジナルのドラマを作るのがいかに大切か、改めて思い知らされました。
本作は記録映画であるが、明るく楽しいものになっていればと思う。最後はほろりとする作品になっています。

結婚と同時に芸能界引退をした明日待子さんは、現在91歳。札幌でも尚舞踊家として活躍。この日は和服姿で登壇し、「今後とも芸の道で精進します」とファンらに誓った。客席は当時を懐かしむファンや関係者などが詰めかけ、500席がほぼ満員。ロビーでは展示された当時の写真を眺めたりしながら昔話に花を咲かせていた。上演後のトークの後には、“明日待子、バンザイ”と熱狂的なコールがおきた。
9月17日(土)からは、かつてムーランがあった近くを皮切りに、全国ロードショーが決定した。
この機会に当時のムーランルージュの熱気やムーランが遺した軌跡を、今の世代にも知ってもらいたい。