この度、8月27日(土)より全国公開となる映画『日輪の遺産』のマスコミ披露試写会ならびに完成報告記者会見が行われました。

■場所: スペースFS汐留(港区東新橋1-1-16 汐留FSビル3F)
■日程: 4月19日(火)
■登壇者:堺雅人/福士誠治/八千草薫/佐々部清(監督)浅田次郎(原作者)

●ご挨拶
堺さん:
真柴役の堺です。原作や脚本を読んだ時はもちろん、現場でも、完成した作品を観たときも、自分では上手く理解できないくらいの壮大な作品に参加させていただいたということを改めて実感致しました。完成した今でも、戦争という事件の大きさを咀嚼しきれない自分が居るんです。観終わった後には、何かを感じることのできる作品だと思います。

福士さん:
小泉役の福士です。デビュー作で佐々部監督とご一緒させていただいて以来、8年ぶりに一緒にお仕事させていただきました。時代をテーマとした壮大な物語で、とにかく緊張しっぱなしでした。いい意味で、その緊張感がスクリーンに映し出されていればいいなと思います。

八千草さん:
久枝役の八千草です。昨年の撮影だったのですが、戦後65年ということで、この作品を含めて立て続けに映画とドラマ3作品に出演させて頂きました。この作品で演じた久枝と私は終戦を迎えたのが同じ年代なので、昔のことをよく思い出しました。思い入れも強く、大きなスケールの、心に残る作品になりました。

佐々部監督:
映画化のお話しをいただいてから、実現に至るまで4年という長い年月がかかりました。やっと世に出す事が出来て、感謝の気持ちでいっぱいです。
浅田先生:
原作は18年前に刊行された作品です。18年も経ってから、こんなに素敵な映画にしていただいて本当にありがたいと思います。公開は8月ですが、一人でも多くの人にご覧いただければと思います。

●Q&A
Q: 真柴役を演じてみていかがでしたか?
堺さん:
戦争だからとか、軍人だからという決めつけで演じたくないと思っていました。資料で調べても、生活者としての姿が最も見えにくい存在、それが軍人でした。だから、きちんと自分に理解できる部分から、一つ一つ演じていこうと心掛けていましたね。現場に入ってからは、佐々部監督がお作りになった世界感の中で、撮影の雰囲気や共演者の方々に真柴という男の人柄を引き出していただきました。

福士さん:
未来の世界を見通す程の頭のいい役だったので、台詞も難しくて。小泉という人物や台詞の理解度を高めるのが大変でした。ただ、現場に入ってからは、その場その場の素直な気持ちを一番に演じました。会話と心を通わせることで、小泉が出来たと思っています。

Q: 撮影時のエピソードをお聞かせ下さい。

八千草さん:
ラストのシーンは今思い出しても涙が出ます。当時のことを思い出して、気持ちが入り込み過ぎてしまって、テストの時に気持ちを出さないでと言われたのですが、困ってしまったことを思い出します。私は、学徒動員に参加して、断熱材の機械作りや軍服のボタン付けなど、授業のない一年を過ごしていますから、当時のことが思い出されてなりませんでした。
質問とは異なりますが、この作品に出てくる財宝が本当に実在したならば、被災地の人たちにとってどれだけの助けになるかを考えると、本当に心が痛みます。現在、テレビなどで目にする光景は、戦争時の焼け野原とつながっているような気も致します。

Q: 『日輪の遺産』は監督の10作目に当たるとのことですが、何か特別な思いはありますか?

佐々部監督:
デビュー作のタイトルは『陽はまた昇る』で、今回の10作目は『日輪の遺産』ということで、「太陽」できちんと繋がっているんだなと感じました。「人をきちんと撮る」ことを佐々部カラ—だと思って、今後も撮っていきたいと思います。
この作品が未来に向かう作品として、今の日本の人たちにとって勇気を感じてもらえるような作品になっていれば嬉しいです。

Q: 浅田先生にとって、この『日輪の遺産』はどのような作品なのでしょうか?
  
浅田先生:
初めて出版社から「好きに書いていい」と言われて書いた作品なので愛着が強いです。これが最後の作品かもしれないと思っていましたから。戦争経験者ではない自分が戦争の物語を書くのは僭越ですが、知らないからこそ、きちんと伝えたいという気持ちで書いています。経験したことのない戦争を描くとき、筆が止まることがあります。この場面で、こんな考え方をするのか、字句の使用はこれで良いのかと、恐くなるんです。それは、戦争を経験された方に対することではなく、戦争でお亡くなりになった方に対する畏怖と敬意を意味するのです。こんなに立派な映画にしていただいてよかったです。

Q:実在の米軍キャンプ地が舞台のモデルだそうですが、実在のキャンプ地をモデルにしたきっかけを教えて下さい。

浅田先生:
当時、稲城にある米軍キャンプ地の近くに住んでいたんです。元は陸軍の弾薬庫で、未だ返還されていない施設です。
米軍キャンプ地なので、毎年クリスマスには綺麗なイルミネーションが飾られているんですよ。昔はイルミネーションなんて珍しかったですからね。そこから興味を持って、色々な資料を探し始めたのがきっかけです。

Q:20人の少女たちのキャスティングについてお聞かせ下さい。

佐々部監督:
哀しさを出したかったので、今時じゃない、昭和の雰囲気のある子をキャスティングしました。撮影に入ってからは、助監督が教官となって、歩き方から食事の仕方まで当時の状況を全てたたき込んでいただいて、撮影に臨んだという感じです。現場に入ったときは、
堺産を始めキャストの皆さんから、「彼女たちはどこから連れてきたの」と言われました。(笑)

堺さん:
20人の少女たちからの、まっすぐな目に応えてお芝居するのはすごいプレッシャーでした。真柴という役を演じる前に、俳優という堺雅人を演じていたくらいです。彼女たちのまっすぐさにはかなわないな、と思っていたのを覚えています。一度、食事をご一緒する機会があったのですが、今どきの女子たちはこんな風なのだなと、オフの時とのギャップにも驚きましたが。(笑)

Q:八千草さんにとって特別な作品と言うことでしたが?

八千草さん:
これまでの出演作品の中にも、思い出深い作品はあります。役として演じられる作品と、今回のように、役以外の何かがあって‥‥。もう少し離れて演じられたら良かったのかも知れません。少女時代のことが思い出され、不思議な体験をしました。

●メッセージ

佐々部監督:
この作品が日の目を見るまでの長い間、信じて待っていただいていた浅田先生に感謝の気持ちでいっぱいです。同じく、この作品を世に出してくれた角川映画さんにも感謝しています。恩返しは、一人でも多くのお客様から応援していただくことなので、皆さん、どうぞ宜しくお願い致します。

堺さん:
伝えたいことは沢山ありますが、上手く言葉になりません。戦争という見通しの悪い時代に、自分たちの判断で、できることをやることで、人の価値が決まるような気がします。僕にとっては、“いま”というのは、これまでにないくらい・・・少なくとも、僕が生まれてからこれほどの状況になったことがないくらい、見通しが悪いですが、その中でもやれること、決断できることというのがあるはず。当たり前のことですが、いまの状態をしっかりと受け止めて、やれることをやることが必要だと思います。この作品を観て、こんな日本人もいたんだな、という参考にしていただけたらと思います。この時代にこの物語を皆さんと一緒に共有できることが嬉しいです。

浅田先生:
母や母の友人たちから、勤労少女の話を聞いたことがきっかけでこの作品を書き始めました。そういう意味では、映画の中の少女は、私の母であり、母の友人でもあると思っています。私たちは、戦後と戦前で日本が変わってしまったと思いがちですが、決してそうではないんだということを忘れないでください。日本の歴史を連続性の中で捉えることが私たちの使命であり、この作品に登場する少女たちは、私たちの母であり、お婆さんなんだということをつかみとっていただければ幸せです。