かつて、地獄の戦場がアジアにあった。太平洋戦争中約19万の日本の将兵が、その尊い命を失ったビルマ。3年に渡る長期取材を経て完成させた自主制作ドキュメンタリー映画『花と兵隊』は、タイ・ビルマ国境付近で、敗戦を迎えた後、祖国に還らなかった6名の日本兵・・・”未帰還兵”を描いたドキュメンタリー映画である。

8日、公開初日を迎え、シアター・イメージフォーラムにて初日舞台挨拶が行われ、監督松林 要樹はじめ、プロデューサー安岡卓治らが登壇した。

・”未帰還兵を撮るにあたってのいきさつは?”

ー「(監督の出身校)日本映画学校において、1971年に撮られた今村 昌平監督の『未帰還兵を追って』を見て、彼らがいると知りました。そして前・前年ぐらいに、未帰還兵の舞台であった所へ足を運ぶ機会があり、彼らの事をすごく身近に感じました。その後2001年に、ビルマに足を運び北の方まで行きましたが、感染症になりまして、余儀なくすぐに帰ってきました。この映画を撮るきっかけとなったのが2005年=戦後60年の時、テレビ番組で、「企画書を出さないと一人勝ちできないぞ!」と先輩に言われ、はじめに書いた企画書が『未帰還兵』。今村監督が作った作品から”未帰還兵”を知り、取材を始めました。」

・撮影中に苦労した所や、印象的なエピソードを教えて下さい。

ー「もっとも苦労したのは、この作品でイチバン最後に出てくる藤田松吉さんという長崎県出身の帝国陸軍の方だったのですけど、彼の所に行くのが、実は映画の中では最後に出会っているようになっているのですが、初めに出会ったのが藤田さんでした。藤田さんは取材慣れしてらっしゃり、日本のメディアが訪れるそうですけども・・・試されてるのかと言わんばかりに”お前は何しに来たんだ??ここで撮影するなら金払え!!”と詰め寄られたりしました。しかし取材始めてから2日目ぐらいに、彼が大事にしている慰霊塔の存在を知り、慰霊塔の掃除をしました。すると藤田さんの中では、僕を取材する人として受け入れてくれたと今は思います。藤田さんは、40年間遺骨収集を続けてる方で自分の人生が、慰霊塔に凝縮されている感覚を持っている方だと思います。なのではじめ苦労したのは藤田さんにどうやって、受け入れてもらえるかという事と、日本にずっと帰ってない方なので日本の”羊羹”や”お茶”など食べ物を持って行き気に入ってもらったと思います。藤田さんは”僕を通して”、日本の今を知りたかったようで・・・それで受け入れられたのかなと思っています。余談ですが・・・藤田さんに撮影初めに、”おまえはいくつだ??”と尋ねてきました。藤田さんが終戦を迎えたのは26歳です。僕が取材を始めたのは27歳。ほとんど年として変わらない20代の若者だったんだと強く意識しました。それまで戦場体験というのは、あたかも80代90代の方が経験している事だと思っていたのですが、藤田さんの”自分が戦争を迎えた年とほぼいっしょだな”と言われた時、これは若い人が経験したんだと強く意識しました。」

・プロデューサーへ映画作りを通して、監督にどのような印象をお持ちになったでしょうか??。

ー「この作品は、非常に厳しい環境の中進められてきたわけです。テレビの番組でもなければ、大きな作品でもない。松林監督が仕事をして、貯めたお金をぎりぎり所で、3年近い期間乗り切ったものです。私は自主製作のドキュメンタリーは、何本か経験はしていますが、それでも共通している何かがあったと思われます。
”志”です。すなわち何によってあながわれるか。すなわちこの作品が大ヒットして、彼がたくさんの収入を得るか?というわけではないと思います。”この事を映画にしなければならない”という志が松林監督を支えたのだと思います。その志を授けて下さったのは、戦争中の苦しい話を語って下さった出演者の思いが松林監督に、大きな志を授けてくれたのだと思います。ここで上映できたという事は、松林監督の努力もありますが、取材に協力して下さった出演者の伝えたいという思いが、ここに結実したのだと思います。」

シアター・イメージフォーラムにて公開中、ほか全国順次ロードショー!!

(Report:長島美秋)