ここで、特に強調したいのですが、アウシュビッツはビルケナウに比べると遥かに状態が良かった事です。ひどい状態でも皆ベッドに寝ていましたし、ほんの少しでも1日に300gのパンや、僅かですが顔を洗うような水がありました。しかしビルケナウは正に地獄そのものといえる状態でした。何十万の人々が強制的に収容され、小さな馬小屋に800人が詰め込まれるという地獄の中に私は1年半いたのです。その中で、他の6人の印刷工と共に外にひっぱり出された。初めてそこ(アウシュビッツ)で自分が地獄から出たと実感しました。3週間アウシュビッツでチフスが発症しないかを確かめられ、実際に感染していなかったのでベルリンに向けて出発する事になったのですが、ナチスの担当者が来て、私達を駅に連れていき「汽車が来たので乗れ」と言いました、その汽車が急行だったのです。それも信じられない事でした。ユダヤ人の移送には常に家畜用の車両が使われていたのです。私たちは急行に乗り、何時間もかかってベルリンに到着しました、その時、都会の大きな駅の喧騒を、人々がざわめいていて、女性や子供がいて、兵隊達がたくさんいる。そのような、少なくとも、ここ3年間は一切目にすることが無かった状況を再び見たのです。ここで普通列車にのりかえ45分ほどで到着したのが小さなオラニエンブルクという駅でした。私は知らなかったので、この駅を見て所長が言った事はやっぱり嘘だったのだと、ベルリンとは違う変な所に連れてこられてしまったと思ったのです。そして、私はオラニエンブルクにあるザクセンハウゼン強制収容所で最終的にナチスの命令の元に1億3千2百万ポンドの贋札を印刷するという運命になったのです。

私はザクセンハウゼン強制収容所の18、19号棟に収容されたのですが、この建物は強制収容所内でありながら、さらに鉄条網で厳しく囲まれ、窓という窓は内側から真っ白に塗られていて、外からは、一切窺い知れないようになっていました。その建物の中でナチス最大の秘密作戦が実行されていたのです。働いていたのは142人のユダヤ人でした。この二棟には、作業に従事するユダヤ人と秘密作戦の遂行を監督する警備兵だけが入る事を許され、ナチスの兵士すら入ることはできませんでした。当時はチトー※4が独立宣言をした後で、スイス位の広さの領土を持ち、自国の通貨を発行していましたので、最初の3週間はチトー政権の紙幣を贋造していました。その後、イギリスのポンドの贋造を始める事になるのです。

さて、まだお話する事は沢山あるのですが、ここからは皆さんの質問を受ける事にしましょう。

−−−映画でブルガーさんは、理想主義で正義感が強く、その為に周囲が迷惑してしまう人物として描かれていますが、感想は?

あくまで、この映画は現実を踏まえたフィクションですので、例えば劇中でドルの贋造をしたくないが故にサボタージュをして、仲間と殴り合いになるシーンがありますが、そのような事は全くありませんでした。そもそもサボタージュをすると皆に公言してする人はいない訳で、サボタージュがあったとしてもそれは秘密に行なわれた訳です。映画はあくまでフィクションで、実際にどのような事があったのかは手記※5に書いてあります。日本でも出版される事になりますので、是非読んで下さい。
それから、警備兵は決して馬鹿ではなく非常に知的で、化学の知識を持っている者や、優れたエンジニア達だったので、出来上がったポンド紙幣がきちんとした贋札かチェックする為に、いろいろな所から銀行業務に通じた20人からのユダヤ人を集めてきて贋札を1枚ずつ調べていました。もし私が、ポンド紙幣についても変な物を作ってやろうとか、サボタージュをしようとしていたら、その場で射殺されていたでしょう。ですから、そこでのサボタージュというのは全く不可能でした。しかし、ドル紙幣の場合は少し事情が違って、仲間にオランダのヤコブソンという人がいて「ドルの贋造は、ナチスが戦争を長引かせる事に貢献してしまう」と主張したのです。ドルの贋造には良質のゼラチンが必要でしたが、ヤコブソンは意図的にゼラチンを悪質な物にしていたのでなかなかドルはできなかったのです。ただ、その事はヤコブソンと私しか知りませんでした。他に知っている人間がいたとすれば警備にあたったナチス側の人間で、作業していたユダヤ人達ではありません。
 私たちのザクセンハウゼンでの暮らしは大変清潔で、食事も十分にとる事ができました。このような生活を与えたのは彼ですが、この作戦を立てたベルンハルト・クリューガーは殺人者でした。ただ、病気になった彼らを病院に連れて行くことができないという理由で6人もの若者を殺してしまったのです。一方彼は私たちに卓球台を与えました。「健康を維持する必要があるから」と彼は言っていました。私は、実際にナチの将校を相手に卓球をしたのです。あの大虐殺の最中にそのようなユダヤ人がいた事を誰が信じるでしょうか。しかし、クリューガーが殺人者であることには変わりません。
 映画の中で、贋札工房で演芸会が催されていますが、あれは事実です。作業員のノベルトという青年はとても歌が上手く、カウンターテナーで女性のように歌う事ができたので、それを聞いたクリューガーが6週間に1度ショーのような催しを行なうと決めたのです。もちろん客席の最前列には6人のドイツ人が陣取り、ドイツ語しか分からない彼らの為に、毎回ドイツ語のプログラムまで印刷していました。私たちはナチス将校と一緒にラジオも聞く事ができたし、外と郵便のやりとりも可能でした。そのような生活を送っていても、自分のベッドに帰ったときには、毎日、自分はいずれ死ぬのだと考えていました。自分も、ビルケナウやザクセンハウゼンの一般収容者たちのように、すでに死んでいて、ただ、死者になる前のバカンスが与えられているのだと。

−−−6人を殺害したベルンハルトは、何故、戦後処罰されなかったのか?

終戦間近に彼は偽造したパスポートなどをもって逃走し、戦後アメリカ軍に逮捕されました。しかし、身分を偽って下級兵士を装い脱走したのです。その後、イギリス軍に再び逮捕されるのですが、ここでも身分を偽っていて、彼の所在は誰にも分かりませんでした。同時に、彼は「バクダッドに逃亡し、そこで死んだ」という噂を流し、追跡されないままに時効を待とうとしていたのです。最終的に、戦後約10年たって彼は裁判にかけられ、1審では有罪になり上告しました。その頃、裁判官や司法に携わる人々は第三帝国時代から変わっておらず、彼を擁護する流れもあったのです。彼は最終的に6人を射殺した命令書が存在しないという理由で罪を認めず、最終的に罪には問われなかったのです。彼はその後ハンブルグにいて、数年前に死んだ様ですね。私は裁判の記録や、彼の死亡診断書も入手しています。詳しくは手記を読んで下さい。

−−−ナチスに加担して贋札を作る事は、同時に同胞を裏切る事でもありますが、どんな気持ちでしたか?

強制収容所の中で鉄条網に囲まれ、常時8人の監視に囲まれた中で、私にできる事といえば、言うとおりに働くか、反抗して射殺されるかのどちらかです。たとえ、私が贋札作りを拒否して射殺されたとしても、贋札は作られてしまうのです。ポンド紙幣は大量に贋造されましたが、ドル紙幣はクリューガーに、6週間後に完成しなければ朝10時に4人を射殺する、と脅迫されるまでは引延ばして200枚に押さえる事ができました。

−−−ドイツでは、若者にこの事実を伝える講演をされているそうですが、一番伝えたい事は何ですか?

私たちは紙幣の贋造だけでなく、切手の偽造なども行なっていました。それは、この本にすべて書いてあります。この本を執筆するにあたり、私は200項目に及ぶ一次資料を集め、完璧を期したのです。本の宣伝ではありませんが、この手記に全て伝えたい事が詰まっています。そして、私はドイツですでに8万5千を超える25歳以下の若者に講演を行なっていて、3時間のプログラムのうち1時間をアウシュビッツ、1時間をビルケナウ、1時間をザクセンハウゼンの内容にあてています。その中でも、「あなた達は、このような事実を知っても罪悪感を持つ必要は全くありません。しかし、もしあなたがネオナチに入ってしまったら、それはナチスやアルカイダと同じ、ただの殺人者になってしまうのだ」という事を必ず伝えています。

※4チトー  ヨシップ・ブロズ・チトー。ナチス占領下のユーゴスラビアで抵抗運動の指導者となり、臨時政府の設立を宣言した。
※5 手記 「ヒトラーの贋札 悪魔の仕事場(仮題)」08年1月11日(金)発売予定