翻訳本が「わいせつ文書」と認定され、性表現のあり方を投げかけた「チャタレー裁判」から今年で50周年。
時代を反映させた欲望に忠実で、時にスキャンダラスな女性像を演じてこられ、映画『チャタレー夫人は日本にもいた』(1953年)にも出演されていた俳優・若尾文子さん。
20世紀最高の性愛文学「チャタレー夫人の恋人」という題材の映画化に取り組んだパスカル・フェラン監督。
お二人を中心に現在の「性表現のあり方」についてディスカッションして頂いたシンポジウムが開催されました。

—性の表現について、監督の考えをお聞かせ下さい

パスカル・フェラン監督:
原作の「チャタレー夫人の恋人」は、当時はスキャンダラスであり、ある種の社会規範を打ち破るものでした。
あれから80年経ち、性の解放や色々な分野で大きな進化を遂げました。
一観客として映画を観たときに、特に肉体と肉体が重なるシーンについては、ほとんど私自身の経験は何も語っていないように思います。
それは恐らく多くの人たちもそう感じていると思います。

「性の表現」について改めて考えてみた結果、大きく3つに分類できるのではないかと思いました。
1つはクラシカルな表現方法で、行為を見せることはなく、ただ暗示させる。例えば、ベッドの中に入り、光が消える。
それは実に残念だと思います。
性行為の中に含まれている活力やパワーを感じられないからです。

2つ目はポルノ映画です。
私自身はそれに反対しているわけではありませんが、女性が乱暴に扱われて、打ちひしがれるというような描き方が多いと思います。
ポルノ映画は個人の性行為というものと全く切り離されています。
男の機能を満たすための経済市場の産物になっています。
関わった人との関係性を断ち切り、男性の性的な喜びを満足させるだけのものになっています。
ポルノ映画の一つの明確な機能は、いかに興奮させられるかで良い作品、悪い作品が決まるんじゃないでしょうか。

そして3つ目は近代における映画の中の性表現です。
例えば、『愛のコリーダ』はとても芸術的な作品だと思います。
『愛のコリーダ』が映画史に登場し、性の描き方も、その前とその後と分ける事ができるのではないでしょうか。
『愛のコリーダ』以降「性」を「生」として描いています。
カトリーヌ・ブレイアや『ピアニスト』などは『愛のコリーダ』と同じようなパワー、要素を持っている作品だとは思いますが、それらは「死」に向かう性行為を描いているように思います。
それは、やはり私の経験は反映されおりません。
一観客としては3つの表現はどれ1つとして自分の経験とはそぐわないのです。

「性」を描くということは、肉体がどの様に重なり合い、どの様な対象が生まれてくるのか、という過程を描くという事が望ましいと思います。
例えば、一番最初に初めての人とはうまくいかないかもしれませんが、その時の体と体の重なり合い、そこには魂があり、感情があり、気分がある。またその事で記憶も戻ってきます。
そういうところはポルノには描かれていません。
自分が性行為を描くとき、行為の後の感情、また行為をしている状態での様々な感情が表れてもいいのではないかと思います。
喜びや、胸の高鳴り。それらが「死」に至るのは、望ましくありません。
私が望ましいと思う性を描いていたのが、『レディ・チャタレー』です。
現代で、ロレンスのような性の描き方を映画でやりたいと思いました。

若尾文子さん:
通常のイメージでは“チャタレー夫人”というと、一般的にご主人との間に結びつきがなくて悩んでいる人妻が、性に目覚めるという内容です。
しかし、本作ではヒロインを演じている女性が実に新鮮で、清純で純真な少女に見え、私はとても驚きました。
考えている映画とは違うと。
また、先ほど監督は触れることが大事だと仰いました。
確かに主人と彼女との間に触れることはありません。
精神的に密接な関わりがあれば肉体的なものはいい。
ご主人との間に全く交流がないように見えました。
だから彼女は森にさまよって少女のようになるというのは自然の事に思えました。

武藤浩史さん:
「性表現」は人間関係の成り立ちに深く関係しています。
単にプライベートな問題ではなくて、そこに社会的なメッセージ、現代に向けたメッセージがあるのでしょうか?

パスカル・フェラン監督:
特に本作で描いたメッセージ以外はありません。
観客と感覚的な経験を共有できればと思っています。
性的なものだけではなく、肉体的にも深く親密に変化をもたらすこと。
お互いの人間関係が深まり、肉体関係も深まるという相互的な作用。
体を切り離すのではなく、頭の中も体も全ての部分が人間関係を深めるということを感じてほしい。
重要な意味になれば嬉しいです。

以上