19世紀末という時代に生きた画家・クリムトを題材にした映画『クリムト』のラウル・ルイス監督が来日し、東京日仏学院でQ&A式の記者会見を行なった。
本作は現実と虚構が混じったクリムトのイマジネーションの世界を史実を織り交ぜながら描いた作品。今まで感じたことのないような不思議な世界を体感できるこの作品を撮ったルイス監督がこの映画の秘密を私たちに教えてくれました。

Q:どうして実在の画家であるクリムトを題材にした映画を撮られたのですか?
A:「最初私が知っていたクリムトの作品は、実は有名なものだけでした。より初期のアカデミー風の絵画も、デビュー当時の宮廷画家の頃の作品も、そして彼が晩年に描いた作品も知りませんでした。私が驚いたのは、クリムトが皆の考えているようなデカダンスの画家ではなかったことです。多くの側面を具えている人間で、私はそれを好ましいと思いました。例えばクリムトは複製画でしか知らなかったホイッスラーという画家が大嫌いでしたが、イギリスで実物を見た後好きになったそうです。そしてそれからはホイッスラー風の作品を描くようになった。そんなクリムトの柔軟性や好みに対する信頼の欠如が気に入りました。」

Q:この映画のどこからどこまでをフィクションと考えたらいいでしょうか?
A:「ディーテールは全て現実です。例えばクリムトがパリに行ったことも賞を取ったことも事実ですし、彼がエミリーを描写しているものも残っています。ただ、あの地でメリエスに会ったかどうかはハッキリしません。わかっているのは、メリエスがパリ万博に行ったということと、当時俳優を使って偽のニュース映画を作っていたということ。だから偽者を使ってクリムトの映画を撮っていたということも十分ありえたんです。また、彼に浴びせられた厳しい批評の言葉も当時実際にあったものを使いました。私はこの映画に”シュニッツラー風の”という言葉を副題としてつけています。シュニッツラーというのはクリムトと同時代の人間で、自身の作品の中で自分をクリムトとして登場させることもしました。つまり虚構です。この映画はシュニッツラーが文学の世界で起こしたことと同じことをしているのです。またこの映画はクリムトの伝記映画ではなく、象徴的にクリムトをめぐるファンタジーなんです。神話に歴史的事実を混ぜてつくるようなものです。それに歴史上実在の人物と言っても、他人に作り上げられた真実というものもあり、本当の自分と判別するのは難しいです。人が作り出す情報もまた現実なのかもしれませんね。この映画では現実のクリムトが、イメージとして作りあげられた自分から逃げようとしています。」

Q:監督にとってクリムトはどういう人間ですか?
A:「この映画で描いているクリムトは、本物の彼からさほど遠くないと思いますよ。私が彼に対して持った最初のイメージは、”女性に対してぼんやりとしたイメージしか持てない人”でした。固定した女性観を持つことができないのです。彼は自分の国にいながら亡命しているような状態に身を置いていました。貧しい出身階級で生きるのではなく、貴族や金持ちたちと時間を過ごすことを余儀なくされていましたから。彼は早くから才能を発揮して数々の賞を受賞し、若くして死んでしまいました。彼の生きた時代の中で映画を撮ることは、アーティストが世界の中で置かれている状況を撮るのと同じことでした。彼の生きた時代のオーストリアは現代社会に非常によく似ています。進歩的であったにも関わらず抑圧的で、逆説に満ちた矛盾する世界だったのです。彼はその社会の一部となっていましたが、抜け出そうとしていました。彼は悩み苦しんだ人間でも、理解されない人間でも、また若い画家を拒絶する人間でもありませんでしたが、仲間意識はどこにも芽生えず、自身こそが彼の不安を掻き立てる把握しがたいものだったんです。彼は権力から近く、そして同時に遠いところにいました。そういうところに興味が惹かれたんです。」

Q:日本ではR指定がかかっていますが、それについてどう思われますか?
A:「当時のオーストリアでは”裸体を正面から描くこと”、”性器をそこにあるものとして描くこと”、”美しくない裸体を見せること”が禁止されていました。セクシュアリティを感じさせてはいけなかったのです。クリムトについての映画を作る上で、これらのことを避けて通ることはできませんでした。R指定はやりすぎだと思いますが、クリムトが生きていた時代と今の時代を比べても、裸体の捉え方は違うでしょう。」

また、印象的なラストシーンについて監督はこう語る。
「あのシーンでクリムトが繰り返し口にしているのは、ローマの伝統に基づいて私が書いた詩です。その伝統によると人は死ぬ時、喉が乾くそうです。そしてどこかわからないところを歩いていると、泉を見つける。しかしその水を飲んでしまえば記憶を完全に無くしてしまうので、飲んではいけない。さらに歩いていくと、”記憶の川”にたどり着く。そこにいる渡し守に自分についての情報を与え、その川の水を飲むと記憶が戻るんだそうです。しかしその記憶というのは宇宙全体の記憶で、そのまま人は宇宙の流れの中に入っていくのです。そこは一種の天国だと言えるでしょう。ラストシーンでは”右に曲がれ”とそそのかす人物がいますが、ダンテの著書を読んだことがある方はご存知の通り、その人物は実は地獄へと誘っているのです。」

(umemoto)