東京フィルメックス2004は本日で4日目。毎日数多くの映画人・観客が訪れ、作品上映に加え、ティーチイン、ロビーでの歓談、各種トークショーなどといった映画祭ならではの人の交流が行われている。元来映画祭とは、こうした観客と作り手との交流の場であると同時にここから新たな才能を見つけ出す新人発掘の場でもあり、クリエイターたちの出会いを通じた創造の場でもある・・いう多くの機能を兼ねた複合体であるということが出来るのではないだろうか?東京フィルメックス第5回を記念して開催されたシンポジウム「国際映画祭を語る」では、実際に海外の映画祭に参加した経験を持つ日本の監督たちに加え、プロデューサー、海外映画祭のディレクターといったそれぞれ立場の違う5人がパネラーとなり、映画祭の役割、効用、理想とするものや、映画祭での思い出に至るまで、国際映画祭について日々感じていることについて語る場が設けられた。

東京国際映画祭をはじめとする数々の「国際映画祭」が先行する中スタートを切り、作家性・創造性といったその主張ある作品群で独自の地位を築いてきた本映画祭だからこその問題提起である。

映画評論家のトニー・レインズ氏の司会によりパネラーとして登場したのは、北野武監督、是枝裕和監督、塚本晋也監督、プロデューサーでもあり前ロッテルダム国際映画祭ディレクターでもあるサイモン・フィールド氏、北野オフィス社長でもあり東京フィルメックスにも携わる森昌行氏の5名である。

冒頭に黒澤清監督、SABU監督、浅野忠信さん、寺島進さんによる国際映画祭での体験談がビデオコメンタリーとして上映された後、シンポジウムはスタートした。

トニー氏:「国際映画祭の存在意義とは、商業的な側面と芸術的な側面など様々にわたるものだと考えているが、みなさんにとっての映画祭の役割とはどこにあるのでしょうか?」

サイモン氏:「映画祭には曖昧な目的が多数あるといえます。一般的な人々は新しい作品を観に来るし、(回顧上映により)特定の芸術的アイデアが維持されるし、また新しい才能のインキュベーターとしての役割もあると思います。」

是枝監督:「1本目の作品でヴェネツィアに行った時は、セールスエージェント・パブリシストなど何も理解しないままに参加していました。配給などがないままに回っていたときに、トロントで初めて北米の小さな配給会社に声を掛けられたことは嬉しい経験でした。自分の作品がこうして公開につながっていくことを体験して後は、優秀なパブリシスト、通訳を用意して戦略的に映画祭を回ることを学びました。回り始めて10年ほどたって、宣伝のために回るというビジネスとしての方法論もあるのだと気づきました。」

塚本監督:「自分としてはアート的な側面としか関係がないが、92年に「鉄男2」で行ったことのはいい経験でした。1つは海外の観客の熱狂を目の当たりに出来たこと。これは自作への熱意になります。次にギャスパー・ノエ、ジュネ・キャロなど好きな監督たちにめちゃくちゃ会えること。そして日本の宣伝にフィードバックできることがあります。それから小さい僕の映画を向こうで公開することが言えます。今では海外の興行収入がないと予算が組めないほどになっています。草の根運動のように小さなところを埋めていくと最終的には結構な数になるんですよ。」

北野監督:「自分が映画監督であると自覚する前にヨーロッパで有名になってしまったのでそのギャップを埋めなければいけないという気持ちと、そんな気持ちでいたらいい作品なんか撮れないという複雑な気持ちです。今まで日本では受けたことも儲かったこともないので日本においては(国際映画祭に参加することは)「ビートたけしは映画監督もやっているんだ」と思われることくらいですよ。」

森氏:「日本には国際映画祭と言える映画祭が今までになかったと思う。監督の顔、ディレクターの顔、審査委員の顔が見え、その審査委員を選んだディレクターの責任があるということわかること。また、上映された映画は観客の期待にこたえなければいけないし、非難されるべきものであると思う。小さくてもそういう映画文化を根付かせることができる映画祭が必要だと思ったことが、東京フィルメックスを始めた経緯にもなっています。」

トニー氏:「コンペティションにおいて賞をとること・とったことをどう考えていますか?」

是枝監督:「賞というものは審査員の評価を提示する物です。観客・ジャーナリズムの批判を含めて初めて必要悪になるのだと思います。日本ではまだそれがないとことが問題点だと思います。」

森氏:「北野映画の正当な評価を受けるまでには「Hanabi」までまたなければいけなかった。結局逆輸入されるかたちで始めて評価を受けられました。これが学んだことでしょうか。国際映画祭の体験そのものが映画作りの歴史になっています。」

そして、最後にはフリートークさながら、監督たちのホンネが垣間見えるコメントが飛び出した。そこには最終的にはある程度の興行的な問題をクリアしなければいけない監督たちのジレンマとも方法論とも言える見解が垣間見えたのだった。

塚本監督:「カルト・エンターテインメントというものを掲げて作品を撮っているが、自分の中ではリクープがすべてといってもいい。次の目標に見合うだけのカルト・アートで客が喜ぶ作品を、というさじ加減で作っている。」

北野監督:「「座頭市」は懐かしさなどある程度の客は見込んでいたが、期待以上にヒットしたといって良いと思う。だけどこれは頼まれた作品でもあり、これを保険に今後作品を作っていこうと思っている。(笑)日本は評論家が大手をふって歩いていておかしいと思う。大御所と呼ばれるような人たちがちゃんとした意見を持っていなかったりするんだよな。」

こうしてシンポジウムの最後は、北野監督の日本映画業界への皮肉とも言えるなんとも北野監督らしいコメントで幕を閉じた。今回提示されたのは、国際映画祭が新しい才能の発掘の場であると同時に、自作の資金を支える海外での興行収入を得るチャンスの場でもあり、作品の宣伝に箔がつくという素直な監督たちからの意見であった。少なくとも、興行が全てではない映画祭という貴重な機会を、あちこちに生まれたもしくはこれから生まれるであろう小さな映画を支えていく機会とし、今後の映画界全体の発展を担う場としての役割は確保していかなければいけないであろう。

(Yuko Ozawa)