戦中、戦後も時代を代表する大スター阪妻(バンツマ)こと、阪東妻三郎が生誕して今年で100年を迎える。
昭和50年に開催されて以来、今回はフィルムがロシアのゴスフィルムフォンドから里帰りした時代劇作品のほか、京都映画祭で復元された断片フィルムなどを含めて57作品が一挙上映されることになりました。
初日は、長男であり俳優の田村高廣さんを迎えてトークイベントが開催されました。
司会は、映画監督の高瀬正弘さん。

本日の上映作品である「破れ太鼓」は、GHQの統制の解け、映倫が出来た年の作品で、監督の木下恵介さんがアメリカの統制を皮肉った作品で、そんな中で阪妻さんがなぜ時代劇ではなく現代劇を捕ったのかを教えていただけますか?
当時父は48歳くらいだったと思います、当時剣劇王・阪妻にとっては大変な冒険であって、コメディ風のホームドラマの作品で、監督は当時37歳の新進気鋭の木下恵介監督。すべてが道の世界への挑戦であって、父は兼ねてから剣劇が無くても通用する役者を目指していて、立ち回りのない作品で成功したかったようです。実際に大成功をして、この作品の後編を作る予定ですでに題名も決まっていたようで「破れ太鼓パリへいく」というそうで、あのおっちゃんがパリで何をするのか分かりませんが、そのような企画が決まっていたようですが父の体調が不安定で実現しませんでした。
この映画の中では父はどうしようもない雷親父を演じていますが、家にいるときの父は物静かでやさしくて子棒脳でとてもとてもいい父でした。
「破れ太鼓」の初号試写のときに阪妻さんはいかなくって、変わりに高廣さんに行ってこいと言われたそうですが・・・・
理由は分からないのですが、母から父が仕事している現場を見てはいけないと言われて撮影所にはいったことがないのです。しかし、なぜかあの仕事に限って私に試写をみてくるようにと母を通じて言われて、そのとき初めて木下監督に会いました。
お父さん、木下恵介に紹介するつもりで言ったと思うのですが、その時の高廣さんは商社に勤めていて役者ではなかったのですが、高廣さんの初めての作品が木下監督の作品でしたよね?
何か親父は、なにか後を継がせたかったみたいで木下監督にあわせてるために試写にいかせたのではないかと今、思いますね。
高廣さんが何年か前に紫綬褒章を受章されたときに木下監督から「田村くん随分大きくなったねぇ」と言われたそうですが、きっと木下さんは「破れ太鼓」の初号試写のときの高廣さんのことを思い出したのではないかと思うのですが・・・・
あの当時の撮影は、台本をいただいてから撮影まで時間がかなりあったんです。「王将」など将棋の駒さばきが体に染み付くまで練習して撮影に挑むまで時間がかなりあったのですが、撮影する前にリズムを掴んで実際の撮影は、とんとんといって終わるという形だったのです。今は、台本を頂いて明後日から撮影ですなんて言われるので準備の時間がなかったりします、あの時代は良かったですねぇ。
台本を現場にもっていかなったみたで、台詞をすべて記憶して物語の流れやリズムを掴んでいるので、撮影中に追加や変更があると父は「2〜3日でやってきます」というくらいにリズムが出来上がっているので、変更があると大変なんですね、だから父には変更はあまり無かったように思います。物語の全体の流れ、リズムを掴むのに部屋に台本を並べて張ってありましたね。台本を1ページ、1ページめくるのではリズムが流れがつかめないようです。
私が撮影した「水戸光圀」で高廣さんにたくさんの変更を出しましたがダメでしたかんぇ。
私もダメですねぇ、私の場合は不器用でダメなんで・・・・・。(笑)
高廣さんが父のことを書いた本の中で父の絵が書かれたメンコを使うことができなかったと書いてありましたが?
自分は父とは付き合いが無かったですよ、駄菓子屋さんにいくと父が書かれた絵柄のメンコが売っていて、いろんな顔をしている絵柄で、それが好きで、メンコは地面に叩きつけて遊ぶのですが、叩きつけたら痛そうで遊べなかったです、だけとメンコだけは机の引き出しにしまって集めていましたね。

「阪妻映画祭」は、文芸坐では6月14日まで、その後はシネマジャックで6月29日から8月19日まで以後、全国各地で公開されます。