母親の危篤の連絡を受けた映画監督が、故郷へと車を走らせる。その道すがら、呼び起こされる様々な記憶と幻想。『ザ・ロード』は、故郷へと旅する映画監督に去来する、彼の現実の毎日、過去の回想、彼が作った映画、夢、諸々の事柄が連なり重なっていく。そこには、異なる二つの要素に明確な境界はなく、映画がまさに夢であることを感じさせる。
 第4回NHKアジア・フィルム・フェスティバルの新作の1本として上映されたこの作品、12月16日午後4時からの上映時には、ダルジャン・オミルバエフ監督が来場して舞台挨拶と、上映後のティーチ・インが開催された。

Q.映画の最初の方で、映画の支配人が説明する傑作の条件というのが「観客の心を豊かにしてくれる、自分自身が今まで来た道を振り返らせてくれる。今自分がいる位置に考えを巡らせてくれる」とありましたが、これは『ザ・ロード』という作品自体を現しているように思いましたが、そのあたりどう考えられていましたか。
——自分の映画の初日で、ふと見ると別の人の映画が上映されるという部分は、実は私が夢で見たことなんです。異常な恐怖を感じましたよ。ただ、その後アミールが女子トイレで自殺しようとする場面とかは、後から思いついたものです。この映画は、私の夢から始まったといえます。私が見たような夢というのは、多くの監督が見るものじゃないでしょうか。最近ベルイマンの本を読んだんですが、そこでも彼が夢のことを話しています。撮影現場に立っていて、どう撮影していいのかわからない。ところが、皆ベルイマンの周りで待っているということを書いてましたね。きっと監督だったら、一度や二度は見るんじゃないでしょうか。

Q.ですから、映画監督は世界で一番残酷な職業であるという台詞がありましたが…
——そうですね。

Q.最初に数学の勉強をされてから、映画の勉強をして批評家、映画監督と進まれたようですが、その経歴に関してお話ください。
——数学科を選んだのは、父が数学者だったから、惰性で入ったんです。それから、カザフスタンの大学に行く前、小・中・校の授業では数学がいいんですよ。残念ながら、そこでは映画を教えていなかったので、映画を学ぶなど思いもよらなかったんです。当時はカザフスタンには映画学校などなかったんです。それで数学を学んだんです。子供の頃は皆映画が好きですよね。私もそういう子供でした。ただ、真剣に映画について考えたのは数学科の3年生の時です。映画と数学の間の関係ですか?一定の形として共通するものはありますが、でも数学とハリウッド映画の間には関係などないんじゃないですかね。

Q.お好きな監督としてフランスのロベール・ブレッソンをあげられていますが、確かに彼の映画はハリウッド映画とは違い数学的な感じも受けますが…
——そうですね、純粋さという意味で共通するものがありますね。数学というものは、数学そのもので存在する純粋な科学ですよね。映画は演劇・音楽・文学・絵画等の影響を受けているとか、それらの集積体だとかいわれますが、ブレッソンの映画は映画そのもので、映画としての純粋さという点で共通しているのです。

Q.ちょっと前の話に戻しますと、映画監督がなぜ残酷かというと、評価というのは数学や科学の世界では実験等で一つの基準が出来るのですが、映画ではそれがない…
——そうです。そのとおりです。そのことを、私の主人公は語っているんですよね。

Q.主演の方が、タジキスタンの映画監督だったと思うのですが、役者ではなく監督を配役されたのはどのような意図でしょうか。また、カザフスタンのセリック・アプリモフ監督が二役で出てたようですが、彼の起用に関してもお聞かせください。
——そう、タジキスタンの監督です。ここでは、カザフ人の監督役ですが、民族が重要なのではなく、彼が監督なので監督の役割を演じるあたって、実際の監督の痕跡が、彼の顔の表情や内面にあった方がいいだろうと思ったんです。というのは、この作品はリアルな作品ではないんです。非常にそうした内面を描くことが大事だったので、本当の監督に出てもらいたかったんです。それから、このアミル役の監督の祖先には、中国人の血が流れていてカザフ人に似ていまして、カザフの観客から観てもおかしくはなかったです。
おっしゃる通り、アプリモフ監督がモンゴルの漢の役と、妹が裸で映っているからと作品を訴える兄の二役で出ています。実は、この後者はアプリモフ監督の作品で、実際に起こった事態なのです。女の子に訴えられ裁判にかけられましたが、法律に規定が無かったのでアプリモフ監督は罪を被せられなかったという話を彼から聞き、またその時の作品の断片を無料で使わせてくれたんです。この場をお借りして、アプリモフ監督にお礼をのべたいと思います。

Q.妹さんのエピソードは、別の人の裸を繋いであたかもその女優が裸になったように見せる、それがモンタージュだというものだったのですが、この映画はあるショットの次にどのショットが来るかということをとてもよく考えた作品のように感じたんですが、監督のモンタージュに関する考え方と、また絵と音がとても少なかったことは、監督の映像哲学に基づくものなのか、そのあたりをお聞かせください。
——何故かというと、これは音楽作品でも文学作品でもなくて、映像作品だからです。それで、台詞や音楽が少ないんです。

Q.最初の頃は人が動いてもカメラは動かずフィックスで撮っているのが、それが段々と追っかけていくようになり、最後の方では移動も自由にやっているようですが、それは監督に最初からあったイメージなのでしょうか?
——とても興味深い質問で、このような質問が来るとは夢にも思っていませんでした。だからどう答えていいのか、私は考える必要があるんです。あまり考えずにやったことですし、またこの作品は出来立てなので未だ客観的に分析するということができてないんです。

Q.監督がこの映画を作るにあたっての編集の作業は、計算され尽くしたテクニックなのか、それともイメージを膨らませていくアドリブ的なテクニックなのか非常に興味をいだいたのですが
——実はモンタージュというのは色々な段階で行われておりまして、シナリオを書いている時にもすでにモンタージュをやっているんです。撮影現場でもモンタージュをやっている。だから編集機で行うのは最終段階ということなんです。恐らく私の場合は、撮影現場でかなりの部分を頭の中でモンタージュしています。

なお、第4回NHKアジア・フィルム・フェスティバルは、東京国際フォーラム・ホールDにて23日まで開催中。『ザ・ロード』は、この後映画祭期間中12月20日19時〜、12月22日16時30分〜の2回上映される。

□第4回NHKアジア・フィルム・フェスティバル
http://www.nhk-p.co.jp/event/asia/asia.html

□作品紹介
http://www.cinematopics.com/cinema/works/output2.php?oid=2614
(宮田晴夫)