第2回東京フィルメックスも中日を迎えた22日、この日はメイン会場を浜離宮朝日小ホールに移し、映画史的には重要でありながら、日本では未紹介の作家にスポットをあてる特集上映として、フィンランドの“幻の巨匠”ニルキ・タピオヴァーラの作品が上映された。ラインナップは、ロシアの圧制からフィンランドを守ろうと活動したレジスタンスの姿をフィルム・ノワール調で描いた『盗まれた死』。撮影中にタピオヴァーラ監督が戦死したため出演者の一人が完成させた『ある男の運命』、そして初の長編監督作品『ユハ』の三作品。タピオヴァーラの名前は決して日本人にとっては耳慣れたものではないのにも関わらず、新たな発見へのアンテナを張り巡らせた観客で、上映は各回ともほぼ満員、立ち見が出る回もある程の盛況ぶりだった。また、『ユハ』の上映前には、この日のために来日したフィンランドの映画史家でタピオヴァーラ再発見の功労者ともいうべきペーテル・フォン・バックさん、第2回東京フィルメックスの審査員をつとめるウルリッヒ・グレゴールさん、日本の映画史家・小松弘さんを迎え、タピオヴァーラ作品をより深く楽しむためのシンポジウムが開催された。
 まずは進行役も務める小林さんから、タピオヴァーラに関しての概要と今回のフィルメックスで彼の作品を取り上げる意義についての解説から始まった。ニルキ・タピオヴァーラは1911年生まれ、28歳で生涯を終えるまでに4本半の作品を撮っている。夭逝された監督というと、山中貞雄やジャン・ヴィゴ等が思い出されるが、山中貞雄の作品が時代劇ということもあり国外ではほとんど知られていないのと同様、タピオヴァーラの作品も本国以外ではあまり知られていない。そして片手に余る作品数だが、多岐にわたる作品を撮っていて、決して特定ジャンルの監督ではなかったということだ。
 フォン・バックさんがタピオヴァーラ監督の『盗まれた死』を初めて観たのは、50年代後半から60年代前半にかけてのフィンランド映画が最も低迷した時代だったという。そんな頃にこんな映画が作れるのだという感動を与えてくれたタピオヴァーラ作品に関して、研究を行いそれが実際にインパクトがあったのか、単なる先駆けであったのかを見極めたかったのだそうだ。そして、タピオヴァーラが映画を撮りはじめるまでの道のりと背景を、彼が中心人物の一人をつとめたフィルムソサエティー“プロイェクティオ”での活動や、映画批評家時代の興味の対象(ロシア映画を重要視し、ハリウッドに対してはアイロニカルetc)などを紹介する。当時フィンランドにもハリウッド式のスタジオが二つあったのだが、そこからデビューするにはかけ離れすぎていたタピオヴァーラは、ドキュメンタリー映画を製作していた会社から『ユハ』を発表する。「彼は5つの違ったジャンルの作品を作り、一見ハリウッド映画のようにも思えるが、そこにはアイロニーや矛盾がこめられていたんだ」。
 グレゴールさんは『ユハ』と同じ原作をアキ・カウリスマキが映画化した『白い花びら』を観た際に『ユハ』のことを知り、ご自身が主催される映画館アルセナールでのフィンランド映画特集上映の際に、新旧作品を上映するプログラム組み、そこで初めてこの作品を観たそうです。「作家性が高く、私達がこんな人を知らないできてしまったことこそ驚きだ」。なお、トーキー初期から二次大戦がはじまる直前の時期までは、映画史においていくつかの空白があり、彼の活躍していた時期はまさにこの期間にあたる。グレゴールさんは、『盗まれた死』『ある男の運命』は今回のフィルメックスで初めてみたそうだが、それぞれの作品に関して、前者は彼がプロイェクティオで上映し親しんだ当時のドイツ映画とロシア映画をクロスさせた作品、後者は逆にそれほど多くの影響は見受けられず、彼の独自性が出た作品だそうだ。また『ユハ』と『白い花びら』に関しては、タピオヴァーラの前者の方が原作に忠実で自然と近い一体感があり、カウリスマキによる後者は翻案のスタンスが見られ超現実主義的なものの表出が感じられるそうだ。「勿論、どちらも大切な作品だよ
 この日は様々な話題が語られた他、今回は惜しくも上映されなかった1本半の作品に関して、その映像の一部をフォン・バックさんがビデオで持ってきていて、作品の解説とともに上映された。一部であっても強い作家性が感じられる映像に、これはなんとか通して観たいと思った映画ファンも多かったようだ。会場の観客は、90分の充実したシンポジウムの内容に満足気。フォン・バックさんはこのシンポジウムと上映時の日本の観客の素晴らしい反応は、必ず本国に帰ったら彼の親戚に伝える旨を話し、シンポジウムは閉幕となった。

□第2回東京フィルメックス
http://www.filmex.net/
(宮田晴夫)