京都みなみ会館にて、9/19(土)-9/25(金)の日程で『映画監督鴨田好史三周忌 鴨田好史レトロスペクティブ in 京都 Vol.2』が開催された。2013年に逝去した鴨田好史監督。有志の手によって神代辰巳監督の神代組チーフ助監督として知られた鴨田監督作品、関連作品を紹介する上映企画で、2014年に引き続き2回目の開催となった。

今回は『未亡人アパート 娘をよろしく』(1982年/62分/日活/35mm)のニュープリントが用意され、昨年に引き続き『ドキュメント・ポルノ 屋台売春』(1982年/58分/日活/35mm)、『路上』(1996年/42分/銀幕工場/16mm)、97年に撮られ遺作となった『聖少女 濡れた花園』(1997年/88分/東映)、関連作品として助監督を務めた『四畳半襖の裏張り』(1973年/日本/72分/日活/35mm/監督・神代辰巳)、鴨田監督に捧げられた『つぐない 新宿ゴールデン街の女』(2014年/87分/インターフィルム/監督・いまおかしんじ)をラインナップ。

9/19(土)には『未亡人アパート 娘をよろしく』『ドキュメント・ポルノ 屋台売春』の主演・吉沢由起さんがトークゲストとして登壇。
9/21(月)には、鴨田監督と係わりの深いいまおかしんじ監督、坂本礼監督、京都のジャズ・バー「JAZZ IN ろくでなし」の店主・横田直寿さんが登壇。冒頭では『つぐない 新宿ゴールデン街の女』に出演した速水今日子さんがいまおか監督と共に挨拶に立った。
そして9/24(木)には、脚本家・スクリプターの白鳥あかねさんも駆けつけ、鴨田監督の思い出を語った。

★9/21(月)速水典子さん挨拶・いまおかしんじ監督、坂本礼監督、横田直寿さんトーク

上映前、いまおか監督と共に挨拶に立った速水さんは、『つぐない』の企画と主要キャストを務めた。
「鴨田さんの作品は拝見したことがなくて、今日はみなさんと一緒に観させて頂きます。
ゴールデン街で“夢二”という店をやっていて、坂本礼くんが鴨田さんを連れて来てくれたんですよね。酔っ払いの素敵なおじさんでした(笑)」と当時を回想した。

●鴨田監督との出会い
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この日は上映後に、上映企画の有志のメンバーである立命館大学映像学部教授の川村健一郎さんが司会を務め、いまおかしんじ監督、坂本礼監督、横田直寿さんトークを行った。

ピンク映画のプロダクションである獅子プロで5年程助監督を務めていたいまおか監督。1994年の末、神代監督の『インモラル 淫らな関係』に助監督として参加することに。元々神代監督の大ファンだったいまおか監督は、神代組のチーフ助監督として鴨田好史という名前だけは知っていた。当時のVシネマは混沌の制作状況で、獅子プロが神代作品の制作を受けるという状況があったという。Vシネマは一千万円映画と言われていて、撮影は一週間。神代監督には小規模な現場と言えるが、3〜4日で撮り上げるピンク映画の助監督の経験しかないいまおか監督にとっては、いきなり大きく違う環境に放り込まれた状況となった。
肺を患っていた神代監督は呼吸器を付けて車椅子で撮影に臨んでおり、監督補として参加した鴨田監督は車椅子を押してフォローにあたっていたという。
まったく準備が進まない現場で唯一相談に相談に乗ってくれたのが鴨田監督だった。
「全然うまくスケジュールが組めなくて、3時半に終わって撮るものがない。“どうするんだよ!お前、一週間の現場なのに”みんなブーブー言ってるわけ。鴨さんがすっと寄ってきて、“いまおかちゃんさ、憂いなく行こうよ”決め台詞みたいな事を言う訳ですよ。がーんとやられてポロポロ、涙流して(笑)。
詩人みたいな感じ。かっこいいんじゃなく、うだうだ呑んだりするんですけど、映画の人というか、何かを真剣にやってる人みたいなイメージがあって。二十代だったのでこういう世界ってのは憧れるなって。それなそんなに続けてられないというのは後年わかって来るんですけど(笑)」

当時助監督を始めたばかりだった坂本監督は、獅子プロの瀬々敬久監督の門を叩き、入社。『インモラル 淫らな関係』にはエキストラとして撮影に参加した。神代監督作品から助監督として鴨田監督の名前を知っていた坂本監督だったが、その時は直接係わることはなかった。制作会社の国映の佐藤プロデューサ—が、鴨田監督作品や坂本監督作品を手掛けていたため、その後鴨田監督と会う機会が多くいつの間にか懐いていたという。毎年年中行事のように、共に飲み続けの過酷な5日を一緒に過ごしたという。
「僕ら演出部なんですけど、鴨さんは映画に関しては厳しくて、ダンティだった。僕とかいまおかさんは軟弱ですから。律している姿がかっこいい。演出部のダンディズムが強くある人でしたね」

●『路上』について
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短編『路上』の原案は階G子さん。16ミリで撮られた『インモラル 淫らな関係』の残フィルムを使ってを制作されている。手弁当で酒代は出すという条件で鴨田監督から2日間の出演を頼まれた横田さん。
「僕は東京出身でゴールデン街で呑んでたから、鴨ちゃんの噂は聞いていて。酒呑みとケンカっ早い。えーっあの人か。ヤバイな(笑)と思いながら出る事になって」
シナリオはなく、若いスタッフがキャストになって順番に出ていたと語った。

その話を受けて坂本監督は、鴨田監督から日活の演出部のシナリオは合議制で、現場に行ってみんなで車座になって翌日撮るものを考えるというスタイルがあったと聞いていたという。
「鴨さんがうちに来て何人かで飲んでいても、急にシナリオ書き始める。チラシの裏紙とか(笑)。そういう環境でシナリオを書いたりしてたのかなぁって」

公開当時『路上』を劇場で観たという坂本監督。22、3歳だった当時はよく分からなかったが、改めてスクリーンで観て気合いを感じたという。
いまおか監督は、
「昨日やったVシネ(『聖少女 濡れた花園』)も気合い入ってるよ。ロケーションのこだわりが凄い見える」

坂本監督は、「荒井晴彦さんも『映画芸術』の後書きで「あいつ作家だったんだな」って書いてたけど、詩的センスもあるし文学的教養もある。今日『路上』を観ると、いざ僕らこういう風に作れるかと言うとちょっと出来ないかなぁ」

●作品を撮る、撮らないに関わらず
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97年以降は作品を撮る機会に恵まれなかった鴨田監督。いまおか監督は、次撮るって気持ちでいることは確かだったと語る。
「今撮ってる撮ってないはあまり関係ないんだな。鴨さんと喋ってると気持よかった。次に何撮るかってことに於いては同じな訳で。それが実現するかは運や周りの状況みたいなものもあるとは思う」

坂本監督は、当時制作体制が変わって来たことを指摘する。鴨田監督の後輩で当時40代でそれなりのキャリア持っていた日活の根岸吉太郎監督達は60代の今も撮り続けているが、そうでない人もいる。制作状況と鴨田監督の持ってる企画のタイミングが合わなかったこと、一緒に制作しようと助力をしてくれる人と出会わないまま月日が流れたのでは、と語る。故郷の愛媛県新居浜市に戻った鴨田監督に時折会いに行ったという坂本監督といまおか監督。“鴨田監督とピンク映画を撮りたい、脚本は荒井さんでやっては?”とハガキで送るとすぐ返信が来たという。
「半年後くらいかな、春に鴨さんが東京に来て、会社に顔を出すなり“おい坂本、荒井を呼べ”って。“まだ何にも話してないんで呼べないっすよ”みたいな(笑)。そういう気概は常にありましたね」

(レポート2に続く)

(Report:デューイ松田)