崔「応援というのはもともと無責任なものなんだよ。家族は責任があるけどさ。」

高橋「家族なんだけどさ、加津さんさ、俺、話した時に、『私はもう何があったって驚かないのよ』って言ってたよ」

崔「俺も同じような話聞いたことがあって、加津さんと初めて会った時は、奥田とは別個に会って。六本木のインゴですよ。亡くなっちゃったんですけれど、ゲイが二人でやっていた。お金持ちの集まる店ではなかったけれど、一癖、二癖、三癖、四癖ある…ちなみにそこに内田裕也さんに初めて連れていかれたんですけれど、そこでよく加津さんに会って、これがまたさぁ、かっこいい呑みっぷりなんだよ。そこが出会いだったんですけれど、奥田が監督した時に、なにかの機会に新幹線でお会いした時に、『今うち、金ないの。奥田が突っ走るから。発泡酒飲んでます』と聞いた。その5人だなというのはなんとなく納得できました。
この映画ではバイオレンス部分は非常に抑え込んだよね?まぁ、ネタバレではないんだけれど、最後、きわめて厳しい世界が展開されるんですが、それは観てから皆さんに受け止めて欲しいんですけれど、バイオレンスの部分はないに等しいよね?」

高橋「ほぼないと言っていいよね」

崔「今までの高橋映画の中では、やっぱりそこに対する一つの、近い距離もあれば、遠くに突き放す距離もあったけれど、それは一つの特色としてあるじゃない。で、前々作やその前の作で、ある種の日本のいわゆる時間がかかる文化性の中でもそこを避けて通ってはいなかったんだけれど、今回そのことはあっさりと脇に置いたよね?」

高橋「学生が殴り合う位だな。」

崔「皆さんを盛り上げるために言っているんじゃないんだけれど、皆さんそれぞれ三人個別の武勇伝というのはご存知だと思うのですが、それを自慢気に言うんではなくて、やっぱり表現として現実のバイオレンスの現場というのを見ているんですけれど、今度の『赤い玉、』においては、意図的にそこを排除していた。性と暴力って、一対ではないけれど、すごく深いところで繋がるようなところもあるじゃないですか?」

高橋「今回(のテーマは、)『性』もあるけれども、『老い』ということも大きいんで、一回は老いた奥田がめちゃくちゃにやられるシーンも考えたんだけれど、やっぱりそれよりも『老い』と『性』を前面に出したいな、というのがあったんで、シナリオにしませんでした」

崔「これだけ聞いていると、枯れた2人がいるようですけれども、枯れてはないですよ!”ここまで最後の炎を灯して、静かに消えよう”っていうタマじゃないですよ、この二人は。赤い玉の形状も興味を持って観て頂きたいですね。単純に丸い赤い玉がぽろっとチンコの先から落ちて、そこから先にある種の枯れた雅がある映画だと思ったら大間違い!結局この二人が作り、演じている世界っていのは、欲望なんですよ。これはその欲望が手に届くからとか届かないからとかっていうこととはちょっと違うね。ちょっと身近な。身近でいて、独特の距離のところにエロがあるっていうのがね、今度の二人にとって不思議な世界と強く感じました。・・・

今度不二子さん紹介しろよ!(笑)

実は昔僕ね、ボンの助監督やったことがあるんですよ。その時に一番感じたのは、こいつが描くエロティシズムというのは、さっき言いましたけれど、肉体派。情緒とは違うエロティシズムというのかな。本人は結構居直ってというか、独特の生意気な若造時代でしたけれど、独特の突き放し方をしていたんですけれど、明らかに、あの時の方が、僕の知っている実態に近かったんだけれど、次第に色々な人に出会って交接して、セックスが全てじゃないんだけれど、人間というのは変わっていってもいいんだ。同時に変わらないものもある。それが同居できるんだ、ということだと思うんだよね。ちょっと年寄りに勇気を与えるとすれば、『変わらなくていいんだよ』。でも変わらざるを得ないこともある。その間にいることが、文学的な捉え方ではなくて、“観念というのは1秒ごとに変わっていってもいいんだ“っていうのが、居直りとは違う強さを感じたんだよね。演技者としての奥田瑛二の存在が大きいだろうし、監督としての高橋伴明、そういう意味ではこの二人、思い切りましたよ、この映画。結構」

高橋「ある種、退路を断った気分もあるし、かつそれは自分だけそうしても、映画って成立しない。この奥田のさらけ出しようというのかな、『俺もやる!』という態度で来てくれたのが大きかったと思う。」

崔「いわゆるチンチンが勃つ勃たないじゃなくて、なんか半勃ち精神みたいなものがあるじゃん?」

(会場失笑)

崔「あるんだよ。勃つんだけれど、どうもこう3,4回抽出すると、もういいかっていう感じ?それ、俺の話か?」

(会場爆笑)

崔「そういうね、生殺し的なところがある、この映画は。つまり、同世代に向けているんだけれど、その下の世代にも向けてるな、っていう、この二人の微妙な陰謀映画でもあるんだよね?単純に言えば、一つの性の商品化として、お客を半分以上勃たせればいいじゃないかと思って観ると、これがちょっとやっかいなところがある。女はやっかいだけれど、男も十分やっかいなんですよ。それは高橋や奥田や僕の実体験ではなくて、描く世界というのはそういうところにあるべきだろう。例えば直截的、直接的なアダルトビデオがあって、いくらでもどんなところに行ってもモザイクもなしで観れる環境があるけれども、それが全てエロではないという、“エロそのものは単純化できないんだ”ということが裏メッセージというか、それをこの二人が声高に言わないからたちが悪いというか、そういうところが非常に面白い物語になっているんだろうなと思います。“勃ちたかったら観においで”というそういう映画なんだろうと思います。」

司会「今日のお客さんの内54歳の方から質問がありました。『これまでの人生全体を振り返って、あなたにとって、エロス/性/セックスの本質エッセンスとはなんでしょう?』」

高橋「今振り返ると、エロスでも性でもセックスでもないような気がしている。今ここまで赤玉寸前のこの時に思うのは、今更ながらだけれど、愛を伴うセックスがやっぱり究極なんじゃないかと思っています。恥ずかしくて言えなかったんだよ、こんなの。」

崔「俺だって聞きたかねーよ」

高橋「けどその辺じゃないかなと今思っている」

崔「俺ねえ、時々別れたお姉ちゃんを愛おしく思うことがあるんだよ。(会場笑い)もういいや」

高橋「僕はずっと少年のころから女陰回帰だね。執着心というか。絵を描き始めてわかったんだけれど、女性の体というのは、地上にあるもの全て備わっている。胸が山で、ヴァギナがクリークで、そう思うと全てが備わっているという美しさがあってそこにすごいエロティシズムがある。人が水がなきゃ生きていけない。そうするとそのヴァギナから滴り落ちる愛液というものが、命の元だったりすると思うと、そこに女性に対するあこがれというものが充満していて、それを未だに妄想もあり、実態もあり、ずっと憧れ続けている。経験をどんどんしていっても、お腹が膨れることはないというね。そういう感じを未だに持ち続けていますから。とても危険な考え方かもしれないけれど、どこまで続くぬかるみぞという感じですね。だから、70歳のおばあちゃんはどういう感じなんだろうと思っていたら、自分が65になったりすると、もっと若い頃30代のころに、70位のおばあちゃんとやっときゃよかったなという反省をしたりしているしね。女性は素晴らしいというのは変わりないね、いまだに。」

崔「俺たち全員、こういう偏った欲望を持つ権利がある。時にそれを大多数に否定されるかもしれないですが。答えになっていたでしょうか?
昔、平岡正明という、死んじゃったんだけど、『全ての犯罪は革命的である』という言い方をしている人がいて、『今から皆捕まりに行け』と言っているわけじゃないんですけれど、女が男に対する考え方と男が女に対する考え方、当然成立するよ。若干質が違うけれど、同じ人間から出ているものだから、絶対欲望はあるよ!それを隠すことはない、と私は思います。」