本作はトルコ・カッパドキアが舞台でありながらチェーホフの短編を発想源としており、他にもドストエフスキー、やトルストイなど、監督が愛するロシア文学の影響が数多く感じられます。しかしながら、監督は本作に直接影響を与えた作品について明言を避けており、様々な憶測を呼んでいました。そこで、映画の公開を記念してチェーホフをはじめとするロシア文学の翻訳を手がける沼野充義氏と、同じくロシア文学者で主にドストエフスキーの翻訳を手がける亀山郁夫氏をお招きして、チェーホフとドストエフスキーを中心に本作に描かれた名作文学を徹底解説いただきました。

一足先に作品をご覧になった沼野氏が、「チェーホフというよりも、むしろドストエフスキーの影響が強いのではないか」ということで、亀山氏に本作を紹介して実現した今回のイベント。
まずは「妻」「善人たち」の解説から、ドストエフスキー作品の影響と思われるシーンを沼野氏と亀山氏が解説。
物語のきっかけを作る少年の名前は、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」に登場する少年の名前と同じことや、映画のハイライトとなるシーンは特にドストエフスキーの「白痴」にも通ずると解説。さらに話題は作中に大きなモチーフとして取り上げられた「暴力への無抵抗」というテーマに。これはトルストイが110年以上前に書き上げた日露戦争への警鐘であり、テロリズムや戦争が続く現代の問題でもある、と解説していただきました。熱心にメモを取る観客いらっしゃり、チェーホフが描いた「人間関係」、ドストエフスキーが描いた「誇りと葛藤」、そしてトルストイが描いた「無抵抗主義」というテーマが100年の時を超え、本作を通して改めて息を吹き返したような、熱のこもったイベントとなりました。

【イベント概要】
■日時:6月28日(日)10:30の回上映終了後 14:00〜14:20 
■会場:角川シネマ有楽町 (有楽町ビックカメラ 8F)
■登壇ゲスト:
沼野充義氏(ロシア文学者)
1954年、東京生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科・文学部教授(現代文芸論、スラヴ語スラヴ文学研究室)。
著書に、「屋根の上のバイリンガル」、「W文学の世紀へ」、「徹夜の塊 亡命文学論」(サントリー学芸賞受賞)、
「ユートピア文学論」(読売文学賞受賞)、訳書に、レム「ソラリス」、ナボコフ「賜物」など。文芸評論、翻訳、
日本文学の海外への紹介にも積極的に取り組んでいる。新刊「それでも世界は文学でできている 対話で学ぶ〈世界文学〉連続講義 3」が光文社より発売中。

亀山郁夫氏(ロシア文学者)
1949年、栃木県生まれ。東京外国語大学前学長・名誉教授。名古屋外国語大学学長。専門はロシア文学。
20世紀ロシア文学、とりわけ全体主義時代のロシアにおける文学・表象文化全般をめぐって批評活動を行うとともに、
最近ではドストエフスキー文学の新たな読解に挑戦している。著書に『磔のロシア』(岩波書店)、『熱狂とユーフォリア』(平凡社)、
『ドストエフスキー父殺しの文学』(日本放送出版協会)ほか。

<トークイベント主な内容>
沼野「こうして3時間以上セリフが延々と続く映画は、いまはどんどんアクションが進み、波瀾万丈なハリウッドのエンターテイメントが主流となっている現代において、ものすごく反時代的な作品とも思われます。だけど、一旦観ると引き込まれて戻ってこれないようなすばらしい作品だと思います。私も年を取って、退屈な映画だと途中で居眠りをしちゃうのですが、これは寝なかったです(笑)
まず私から作品全体の枠組みを解説いたしますと、本作はチェーホフのあまり知られていない作品に強く依拠しています。
監督自身、具体の作品名は言っておりませんが、3つの著作を基にしているとインタビューに答えています。「妻」や「善人たち」という短編はかなり強いように思います。ただもう1つがよく分からないのですが、おそらく戯曲の「ワーニャ伯父さん」や「三人姉妹」などが考えられますね、しかし、この映画のすごいところは、チェーホフを下敷きにしているということだけでなく、むしろそれと共にドストエフスキーが非常に色濃く響き合っていることだと思います。ですので、今日は亀山さんにドストエフスキーと本作の関わりを語って頂きたいです。」

亀山「私はこの映画を観て、特に後半部分に「カラマーゾフの兄弟」が強く意識されているなと思いました映画の少年の名前は「イリヤス」と言います。
イリヤスというのはロシア語で「イリヤ」、愛称は「イリューシャ」となります。「カラマーゾフの兄弟」では、後半はイリューシャの全うな目のなかで、大人の駆け引きの世界がいかに醜く映っているかが描かれます。「息子の目の前で父親がどうふるまうのか」これがこの映画でも大きなモチーフになっていますね。
また、もう一点は、主人公のアイドゥンが最後にイスタンブールに行くと決断して一度村を離れようとしている時に、ある種の悲劇が起きてしまいます。
妻ニハルにとっては、大きな傷として残りそうなすさまじい経験をしている時に、主人公はあの場所を離れている。
この構図も実はカラマーゾフ的ですよね。黙過ですね。あの結果は、ある意味主人公がそうなるようそそのかした、という風にも取れないことはないですね。」

沼野「“黙過”というのはまさに亀山さんらしいドストエフスキー分析ですね。父親の葛藤もドストエフスキー的ですよね。誇りと葛藤を描いていますね。」

亀山「ドストエフスキーの作品の中では、父親はとても子煩悩に描かれているのですが、『雪の轍(わだち)』の登場人物はドストエフスキーを思わせる人物がいたり、チェーホフを感じるものもありますね。」
沼野「チェーホフとドストエフスキーはいわば水と油のようで、あまり相性が良くないし、チェーホフはドストエフスキーのことをほとんど無視しているのです。
だけどこの2人をこういう風に映画で呼び交わすような緊密な構成のなかで溶け込ませるというのは、どう思われますか?」

亀山「やはり時代の1870年代の時代の背景があると思いますね。時代が2人を結びつけ、『雪の轍(わだち)』における悪の問題、暴力の問題が、現代が抱えている闇でもあるからだと思います。」

沼野「チェーホフの「善人たち」のなかでは、トルストイの“無暴力主義“について延々と論議するシーンがあり、『雪の轍(わだち)』でもその議論が延々と繰り広げられています。この”無暴力主義“をなぜ今の設定に置き換えてるのにも関わらず、ここまで出すのか?と違和感を持たれた方もいると思いますが、これは現代の戦争やテロの問題にも直結しているのです。
トルストイの時代にあった緊迫感は今の時代もまさに、いやそれ以上に強い意味を持って現代の我々に語りかけてきているのではないかと思います。」