18日、東京・浅草中映劇場で開催された「第3回したまちコメディ映画祭in台東」でクレージーキャッツの大ファンでもある高田文夫プロデュースによる特集企画が行われました。
『クレージー黄金作戦』(1967)をはじめ、故・谷啓が主演を務めた映画『図々しい奴』(1964)、現在ソフト化されておらず、観ることができない映画『喜劇 泥棒大家族 天下を盗る』(1972)という貴重なタイトルがスクリーンによみがえりました。
トークショーでは植木等の付き人をしていた小松政夫が師匠との感動爆笑エピソードを語りつくしました!
 

●実施日時:9月18日(土)
●場所:浅草中映劇場
●登壇者:高田文夫(62)・小松政夫(68)・いとうせいこう

小松政夫:
高校を卒業したときにどうしても役者になりたかったんですよ。何のツテもないので、劇団の養成所に入れば何とかなると思いました。だけど、入学金もなくて、最終的に車のセールスマンになりました。当時は、これから車がくる時代だといわれていていましたね。そのときに部長が言ったセリフをまだ覚えてます。「これから車社会になるんだ。銭湯行くのも車、豆腐一丁のも車で行く時代が来るんだ!!」ってね。いやいやそんなバカな時代が来るか!とそのときは思いました。…きましたねー!

ビアホールのボーイにチップを払って「日曜のこの時間に来るからテレビの前の席とっといて」と頼んで、貴重なカラーテレビをみていた。昭和37、8年の頃かなあ。だんだん、植木等に没頭していったね。あるとき週刊誌を見たんです。それが植木等の付き人兼運転手募集のコラムで「真面目にやるなら面倒みるよ〜」って括弧で書いてありました(笑)

まず600人の応募者の中から10人に絞られて、セールスマンだったので、毎日のように床屋に通い、スーツを身につけていたんだけど、そうしたら、清潔そうだからよかろう、ということで受かっちゃった(笑)165cmで植木さんと身長が同じなんですよ。映画が始まるときって靴とか服とかを新しいでしょ。私が履きならすんですよ。慣らし運転、慣らし靴ってね。

こんなことがあったんです。「君は父を早くに亡くされたようだが、私を父だと思えばいい。」と(植木さんに)言われてね。この人に一生ついていこうと思ったね。「じゃあ、俺のことなんて呼ぶんだ。」と聞かれたので、「先生。」と答えたら、(口調を変えて)張り倒すぞー!!って言われちゃってね。「親父さんはどうですか。」「それなら聞こえがいい。俺もそれがいいやぁ。」と、それからずっと親父さんと呼んでるんです。

クレージーキャッツショーに出ていたときは、一週間で10時間しか寝られなかったというのは今でも覚えていますね。車に毛布は必ず積んでありました。(植木さんに)ちょっとでも眠ってもらおうと思って。スクリーンを見ると当時を思い出しますね。

マネージャー業は3年10ヶ月です。入ってから半年でいきなり「シャボン」のレギュラーをつけてもらって。谷啓さんが時々台本を書いてたんですよ。台本に、ここで「知らない知らない」やって!とか書いてあったりしてね(笑)「小松・石川五右衛門」と書いてあり、歌舞伎の衣装を用意して「知らない知らない」をやったこともあった。

コマツは芸名で、僕の本名はマツザキマサオミです。当時、笑点にマツザキマコトさんがいました。植木さんが「マツザキー!」と呼ぶと、二人が返事しちゃってね。身長で僕が小さいからコマツ、彼はダイマツになった。3年くらい経ったときに、植木さんにお前にも芸名をつけてやらなきゃなと言われました。007のジェームズボンドをひねって、ジェームズホンドーはいかがでしょうかと提案しました。「ばかかお前は!もし売れたらどうするんだ!恥ずかしいだろ」と言われました。植木さんのおばあちゃんの姓名判断に頼ることになり、コマツマサオになりました。

ハナさんといえば「全員集合!」が口癖ですが、あとで弟分のドリフも全員集合!って言うようになっちゃったんですけど。ハナさんの家に、本当に全員集合して日劇の打ち合わせしてましたね。10人も15人も家にきて大変ですけど。仲間と何かするときは家で企画会議するのが一番楽しかったですね。それぞれのボーヤ(付き人)がみんな谷さんの控え室に行くんですよ。そこで可愛がってくれるから。その場でネタを振ってくれて鍛えてくれたり、アイデアをくれたりね。

あるとき、植木さんから「お前を正式に渡辺プロにタレントとしていれることを社長に話した。」と言われました。「給料もマネージャーも全部決めたから明日から来なくていいよ。」って。明日から来なくていいよってクビかと思いました。「おれの給料は4万から始めたからお前も4万な。」時代が違いますよね!(笑)晴天の霹靂というか、ぶわーっと涙が出ました。車を停めさせてもらって泣きました。いや〜驚きましたね。石の上にも3年という言葉があるので、3年はやろうとは思いましたね。楽しくて楽しくて面白くて嬉しくてしょうがない毎日でしたから。植木等の付き人であることを誇りに思ってました。「植木等の弟子なんだよー!」って言って歩きたくなるくらいでしたから。あの頃植木等は太陽みたいなもんでした。本当に輝いてました。