映画『日輪の遺産』原作者である浅田次郎さんが本作が生まれた縁の地、稲城市で行われた講演会
「日輪の遺産」稲城市試写会および浅田次郎氏講演会
日時:8月7日(日)午後1時〜5時15分
会場:稲城市立iプラザホール
対象:稲城市在住・在学の方々400名
<浅田次郎さん講演会内容について>
・稲城市について
かつて20年位前に、稲城市に12年間住んでいたことがあり、初期の作品は稲城市で書いていた。プリズンホテル〜地下鉄に乗って〜蒼穹の昴までは、稲城製です。
稲城は都心から近く緑が多く、起伏があって風景に表情がある街。子供を育てるのにいい環境ということで移り住みました。
・「日輪の遺産」映画化について
20年前「プリズンホテル」の次に書いた作品で、とても古い小説だったので映画化すると聞いて大丈夫かなと思いました。というのは、設定がバブル全盛期の好景気だったので、小泉中尉が飛び降りるとき「マンハッタンに日の丸が〜」というセリフがあるが、当時はマンハッタン島の半分を日本が買い占めていた時代。今の人が聞いてもピンと来ないかもしれないが、ああいう華やかな時代を日本は経験したんだから、もう一度戻しましょうと思います。
・「日輪の遺産」構想について
稲城に越してきたとき、緑が多くて嬉しくてよく散歩をしていました。多摩病院に母親を連れて行ったときに、待ち時間が長くて、あの辺りをぐるぐる散歩していたときに、多摩弾薬庫にたどり着いたんです。現在の米軍施設・多摩サービス補助施設は、かつて旧陸軍の火工廠で煙突が沢山ありました。そこで図書館で色々調べていったのです。この話はあくまでフィクションですが、内容には責任を持たなくてはなりませんから。これは小説になると改めて思ったのは、火工廠の前を通った時、クリスマスのイルミネーションが付いていて、それを見てこのストーリを思いつきました。この一瞬のストーリーの塊のようなものが落ちてきて、あとはマッカーサーのことなど細かいことを調べながら作っていきました。舞台となった“武蔵小玉市”というのは架空の地ですが、いかにも存在しそうな地名を考えました。
・少女たちについて
今でこそ勤労動員の少女達を調べるのは難しいけど、20年前は調べやすかったのです。というのも母親が堀越校女(現在の堀越学園)で学生たちは横河電機で飛行機の部品を作っていたのです。母親は昭和2年生まれの勤労動員世代だった。日曜も学校で授業があり、生徒は労働でクタクタだったところを心ある先生は寝かせてくれたこともあったという話をよく聞いていました。また、母の同級生3人を訪ねていき取材させてもらい、その3人とも小説のキャラクターになっています。
・「日輪の遺産」への思い
私の父は大正13年生まれで、関東大震災の中で生まれ、金融大恐慌という混乱の中育ち、またもや戦争で焼け野原の東京を経験する、最も不幸な時代を生きた世代でした。自分は高度成長期に生まれた非常に恵まれた世代で、塾に行く必要もなく、学校が終わったら外に遊びに行けました。自分の幸福は何によってもたらされたのか、それは両親が生きてきた最も大変な時代があったからこそだと思っています。それを伝えたい思いで、「日輪の遺産」を書き上げました。
・3・11以降
3・11以降、日本人はいろんなことを真面目に考えるようになり、活字媒体や本が売れ、自分を見つめるいい機会になったと思います。家族仲がいいけれど、自分の両親、祖父母、曽祖父母の時代を知らず断絶した関係を築いてきてしまった人もいると思います。これを機会に、現代に近い歴史をもっと知ってほしいと思います。
・「日輪の遺産」の思わぬ“おまけ”
「日輪の遺産」は原稿700枚、初版6000部で当時は全然売れませんでした。でも書けて良かったと思っています。というのも、これには思わぬ“おまけ”が付いてきたのです。
真柴が参謀総長だった梅津が入院している墨田区の病院へ会いに行く際、東京は空襲で焼け野原だったので、地下鉄に乗って浅草まで行きます。こんな時代でも時刻通りに動くことに感動して涙するという素晴らしいシーンがあったのです。「日輪の遺産」では、取り去られた、原稿用紙30枚分のこのくだりは、原稿用紙400枚の「地下鉄に乗って」という作品となったのです。それが吉川英治文学新人賞をもらい、翌々年に「鉄道員」で直木賞をもらえることになったのです。