ナチス・ドイツが行った国家による史上最大の贋札事件。
この知られざる歴史的事件に従事させられたユダヤ系技術者たちを描いた本作『ヒトラーの贋札』は、実際に強制収容所で紙幣贋造に携わった印刷技師アドルフ・ブルガー氏の著書「ヒトラーの贋札悪魔の仕事場(仮)」(朝日新聞社より1月発売予定)をベースに映画化。

当時の印刷技術や贋札造りの工程を忠実に再現しながら、命をかけて信念を守り抜いた男たちの姿をスリリングかつドラマティックに描き、2007年ベルリン国際映画祭において観客からの高い支持を受け、ドイツ・アカデミー賞では最優秀作品賞を含む主要7部門でノミネート、米・アカデミー賞外国語映画賞オーストリア代表作品にも決定!

その日本公開を記念して、現在でも世界各国を周り、この歴史的事件を後世に伝えるべく、講演活動を続けているアドルフ・ブルガー氏が来日しました。

−−−−ブルガー氏挨拶
ご出席の皆様、本日はようこそお越し下さいました。私の名前はアドルフ・ブルガーです。私は1917年にスロバキアで生まれ、14歳から印刷の職業訓練を受けました。印刷の仕事をした事が私のその後の人生に大きな意味を持ったのです。

スロバキアにおける私の人生はヒトラーが政権を奪取した以降、大きな変化を遂げました。というのは、当時チェコ・スロバキアという国家ではありましたが、カトリックのファシズム政党が力を持っていたスロバキアは、ヒトラーと交渉の末、スロバキアに手を出さない代わりにベーメンやメーレンを侵略することを認め、軍隊もナチスに貸し出すと約束しました。その結果スロバキアは侵略を免れましたが、ベーメンやメーレンは征服されてしまった。また、その時スロバキアはナチスの作った法律を全て受け入れるとも約束をしてしまい、フランスやイギリスも介入する余地が無かったのです。このようにナチスは徐々に勢力を拡大してゆきました。例えば、ナチスは国境の地域については手をつけないという約束があった場合に、スロバキアとの約束を利用して、それぞれの国に侵攻するという事をしていたのです。ポーランドや、ナチスが侵攻した国々にはスロバキアの兵士が借り出され、侵略に手を貸すという事になってしまったのです。
ここで1つ申し上げておかなければならないのは、ナチスによる人種差別政策のニュルンベルク法は例外規定を設けてありまして、1938年以前にカトリックとして洗礼を受けた者はアーリア人とみなす、というものです。この規定に合致していれば、ユダヤ人の印をつける必要がなくアーリア人として扱われていたのです。私自身、22歳の時にブラチスラバにある本の印刷工場でユダヤ人の印もつけず、普通に働いていました。そして、ある日3人の共産主義の地下活動家がやってきて、私に1938年以前のカトリック洗礼証明書を偽造してくれれば、ユダヤの人々が助かるので、洗礼証明書を印刷してくれと言いました。私は当時まだ若く、地下活動とはどういったものかもよく知りませんでした。ただ、人を救うのだと言われて、3年間洗礼証明書を偽造しました。そして、ついにゲシュタポに捕まることになるのです。

その日の事を今でも忘れる事はできません。1942年8月11日、25歳の誕生日の前日、ちょうど妻と誕生日を祝おうとしていた、その時にゲシュタポに捕まってしまいました。3週間取り調べを受けましたが、裁判というような司法手続きは一切経ず、直ちに強制収容所に送られました。捕まえにきたのはスロバキアのゲシュタポでしたが、これはドイツのゲシュタポと何ら変わらない組織です。その結果私はまずアウシュビッツ※1に送られ、次にビルケナウ※2強制収容所を転々としたわけですけれども、妻ギーゼラは22歳でクリスマスの1週間前にビルケナウで虐殺されました。収容所に送られた時から私の人生の悲劇が始まったのです。私自身はアウシュビッツには6週間だけいて、その後ビルケナウに移った訳ですが、このビルケナウとは非常に悲惨な場所で1つの馬小屋の中に800人ものユダヤ人が詰め込まれていました。水もなければ、何の衛生施設もありませんでした。ところが、ある日私に奇跡のような事が起こったのです。点呼のときに私の囚人番号が呼ばれ、その者は「明日収容所長のヘスの所に行くように」と言われたのです。私は驚き、その晩は心配のあまり一睡もできませんでした。これからどのような事が起こるのだろと考えたのです。粗末な建物しかないビルケナウの施設の中で唯一の石造りの建物が管理棟で、翌朝早くに、そこの2階にある所長の部屋に行きました。囚人は名前を名乗るのは許されていなかったので囚人番号64401です。といったのですが、所長の反応はそれまでと全く違うものでした。私の顔を見て「あなたはミスターブルガーですか?」と聞いたのです。”お前”でなく、”あなた”です。それに”ミスター” とも。名前すらずっと呼ばれることが無かった私に対して、そのように呼びかけ「あなたは本の印刷工ですか?」とさらに聞きました。私は「はい」と答えたところ、所長は「あなたのような専門職者を必要としているので、ベルリンに行ってください。あなたは、ベルリンで自由に仕事をして生きていく事ができるでしょう。これからの幸運を祈っています」と言いました。私はその言葉の1つ1つ、全部を信じる事ができませんでした。なぜなら、ビルケナウは「夜と霧」作戦 ※3の略でNと呼ばれ、極秘裏にユダヤ人を殺すための施設でしたから、始めから生きて出られるとは全く考えていなかったのです。その後、自分の収容施設に戻っても信じてはいなかったのですが、普段どおりに(強制)労働に行こうとしたら、常に監視している監督者から「おまえは、もう労働しなくてよい。明日はベルリンに行くので、準備をするように」と言われ、初めて本当に”私はここを出られるのだ、自分に奇跡が起こった”とわかりました。囚人の中から私と共に6人の印刷工が選ばれ、翌朝に点呼で囚人番号と本人が間違いないかを確認して、私達はビルケナウを出ることができました。ビルケナウは衛生状態が悪くチフスが蔓延していた為、ベルリンにチフスを持ち込まないために、待機期間ということで、まずアウシュビッツに移送されました。

(つづく)

 ベーメン、メーレン  チェコのボヘミア地区とモラヴィア地区のドイツ語名
※1 アウシュビッツ    アウシュビッツ第1強制収容所(基幹収容所)
※2 ビルケナウ     アウシュビッツ第2強制収容所ビルケナウ
※3 「夜と霧」作戦 「Nacht-und-Nebel-Erlas」ナチスの特別命令。ユダヤ人や政治犯は、夜間秘密裡に逮捕して強制収容所に送り込み、その安否や居所を誰にも知らせず、一夜にして家族ごと消してしまうというもの。